説教 4月21日(イースター)「甦られた主との出会い」

聖書 ヨハネによる福音書20章1〜18節

今日はイースター、罪びとたちの手によって十字架につけられ殺された主を甦らせた神の大いなる恵みの出来事を覚える日です。アダム以来人が神に対して犯したすべての罪、その結果としての死と悲惨が、御子によって担われ、裁かれ、終りとされました。私たちがその中にいる神に逆らう世は過ぎ去ったものとされました。私たちが生きるのは、ただ永遠の神の愛の懐、その御手のうちに新しく生きることであるほかはないことが明らかになったのです。しかしイースターの朝起こることは、それが解らない弟子たちにとって不可解なことばかりでした。主は甦られ、弟子たちを父なる神のみもとに招こうとされるのですが、弟子たちは死んだイエスの遺骸を求め墓に向って走り、墓に入るのです。マグダラのマリヤが、主の遺骸が収めてある墓の入口の重い石の扉がすでに取り除けられているので、遺骸がだれかに持ち去られたと思い、ペテロと主の愛弟子と呼ばれた年若の弟子に知らせます。二人は競うようにして墓に入り、遺骸を巻いていた亜麻布ときれいに巻いて置いてある頭の布が残されているのに、遺骸自体はないのを確認して、愛弟子は主が甦ったとしか考えられないと信じました。しかしそれは頭の中で信じただけで、生ける主イエスと出会ったわけではありません。二人の男弟子は、それで満足して家に帰ったのです。しかしマリヤは墓から離れえず、その場でうずくまり泣いていました。彼女が命かけて支えとしていた主が奪われ、取りすがる遺骸すら奪われたからです。ところがふと顔をあげて見ると二人の天使が立っていて、女よ、なぜ泣いているのか、だれを探しているのかと尋ねるので、「誰かが主を持ち去り、どこに置いたのかわかりません」と訴えながら、気配を感じて後ろを振り向くとそこに主イエスが立っておられました。しかし、彼女はそれを園の番人と思い、主に向って「誰かが主を持ち去りました。あなたがやったのですか、だったら返してください。わたしが引き取ります」と迫ります。滑稽なことですが、彼女は必死です。主イエスは、その彼女に、マリヤよ、と名を呼んで呼びかけられました。その声は彼女自身よりももっと深い彼女の心の芯に届き、その心の芯を震わせて、彼女の口から、「ラボニ!(先生!)」との応答を引き起こします。このようにして主イエスと彼女との真の出会いが起こりました。これらの叙述の中で福音書記者は、私たちが甦られた主と出会うと はどういうことかを示していると読めます。わたしたちは、私たちの目をどんなに凝らし、思いをつくしても、復活の主と出会うことはできません。復活の主は、わたしたちが今ここに存在するより先にすでに私たちの背後から私たちに、父なる神からの新しい命を注ぎつつ、呼びかけて下さったという仕方でのみ私たちに出会って下さるのです。

2019年06月18日