説教 3月31日 「使徒信条講解⒃-永遠のいのち」

聖書 コリント人への第1の手紙15章42〜55節

使徒信条は教会の歴史を通じて地域を越えて世界の諸教会で共通に唱えられてきました。しかし私たちはこれを上から決まりきった信仰箇条として受け取らず、一つ一つの言葉を吟味し、自分の信仰の言葉として受け取ることができるようになりたいと思います。そのことを目指して今日が16回目の講解で、最後の言葉「永遠の生命を信ず」まで来ました。私たちのこの世の生涯は死をもってはかなく消えていくものです。もし消えていくことが人間の宿命だとすると、ぎりぎりのところ人生何のための人生だったのでしょうか。そもそも神はそんな風に人間をお創りになったのでしょうか。そうではありません。神はわたしたち人間一人一人をご自身のかけがえのないパートナーとして、神の栄光を現わして輝いて生きるように、その神の愛に応えて、神を愛し、同じ造られた人間同士愛し合い、支えあうようにお創りになられました。私たちがいるとはそういうことなのです。90篇の詩人は、神を仰いで祈りつつ、神が人間を死すべきものとしたのは、人類の罪に対する「あなたの怒り」であり、「われらの不義を御顔の前に置かれたのだ」と語り、「神よ、罪びとのわれらを憐れみ給え」「せめておのれの年数を数える謙虚さを与えてください」と祈っています。しかし、それから何百年もの後、神は御子イエス・キリストによってこの詩篇の作者の思いも及ばなかった力ある業を人類のためになさってくださいました。すなわち神はその罪のために御子を神の怒りを受けて死ぬほかはなかった人類の肉を取らせて送って下さり、この御子にわたしたちが受けるべき神の怒りの裁きと死を負わせて、み子の死をもって罪びとのわたしたちを死んだものとみなし主イエスを死人の中からよみがえらせて、わたしたちをその新しい甦りのいのちの中に置いて下さいました。こうして神は御子によって、人が死ぬということが命の終わりなのではなく、神の御許での神の栄光に輝いて生きる新しい命の始まりであることを示されたのです。使徒信条はこのことを力強く心込めて語っています。「主はポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人の中から甦り、天に昇り、父なる神の右に座し給えり」と。そしてみ子・主は私たちをその天の父のみもとに招いて下さっているのです。だから、わたしたちは、人の死に直面する衝撃の中で、なお主を仰いで慰めを受けるのです。なぜなら、私たちの代わりにご自身が神の怒りを受けて死んでなお甦り天に迎えられた主を仰ぎ、、今は見えないが、やがては目に見える形で与えられる主イエスと共に神から受ける確かな祝福を確信させられるからです。

2019年06月18日