説教 3月24日「神の国から遠い富める人々の救い」

聖書 マタイによる福音書19章23〜30節

一人の富裕な若者が、永遠の生命を得るためにどんなよいことをすればよいかと主イエスに尋ねてきたので、主は、良い方はただ一人である、その方つまり神のいましめに従いなさいと答えられ、「殺すな、盗むな」など十戒の言葉と共にその要となる「あなた自身と同じように隣人を愛せよ」と言われました。件の若者が「そんなのは守ってきました」と事もなげにいうのに対して、今この若者が聞いて行うべき神のいましめとして「行って財産を売り払い貧しい人々に施し、わたしに従ってきなさい」と答えられました。ところが若者はこの言葉を聞いて、悲しみながら立ち去りました。主イエスは若者の心に、持てる富に引きずられて神の国から遠ざかっている自分を悲しむ思いを宿させられました。若者が去ったあと、主イエスも悲しみつつ言われました。「富んでいる者が神の国入るのは難しいものだ。ラクダが針の穴を通るほうがもっと易しい」と。富める人こそ救われているというのが、宗教も含め世の人の考えです。だから主イエスの言葉は人々の理解を越えていました。弟子たちも、この主イエスの言葉には驚き、「それでは一体誰が救われるのでしょう」と言いました。しかし主はそういわれる、なぜでしょうか。神は人間が自分の思いで作り上げられたような方ではありません。むしろ本来無に等しい土の塵にご自分の息を吹き込んで生きた者として人を造られたような方であります。この世で低められた貧しい小さな者に恵みをもって臨まれる小さき者の神であり給う。いやすべて人間はたとえどんなに富を持っていても、高い地位の人であっても、本来小さき者、何も持たないものであり、人間がいるということ、生きているということは、その瞬間ごとひたすら神の恵みによって存在と命を与えられてのみ成り立つものなのです。ところが富を持つ人は、無自覚のままだと、自分の持つ富に幻惑されていて、それにより頼んで、自分を偉い者のように思い満足して、恵みの神の招きに背を向け、自分が神になったかのよういおごり高ぶってしまうのです。だから、主は「富める者が神の国に入るより、ラクダが針の穴を通るほうがもっと易しい」といわれました。神の国に入るには、自分を小さくしなければならない、いや自分がゼロにされなければならない、それなのに、富める者は自分をラクダの千倍も大きい者と錯覚してしまっているので、大きすぎて、針の穴より小さな天の国の入り口に入れないのです。ところが、弟子たちの「それではだれが救われるのだろう」との問いに主は答えて言われました。「人には不可能だが、神には何でもできないことはない、と。神は自分をラクダの千倍も大きくしている富める者のおごりを打ちのめし、自分の小ささを悟らせ、神の恵みのみに生きる者に変えることがおできになるのです。

2019年06月18日