説教 3月17日「富める若者に見えなかったもの」

聖書 マタイによる福音書19章16〜22節

主イエスは弟子たちを連れてご自分の受難の地・そして復活の地になるエルサレムへの旅の途上にあります。ある時そのイエスに一人の若者が「先生、永遠の生命を得るためにはどんなよいことをしたらいいでしょうか」と尋ねてきました。その若者はたくさんの財産をもつ金持ちでした。主イエスは言われます。「なぜよいことについて私に尋ねるのか。よい方はただ一人だけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい。」若者が「どのいましめ」と尋ねると。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな」と十戒の規定の中の対隣人関係の者を列挙され、最後に「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と言われました。すると若者は、「それらはみんな守ってきました。」主イエスは答えて言われます。「もしあなたが完全になりたければ、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に宝を持つこと人なろう。そして私に従ってきなさい。」この言葉を聞いて、若者は悲しみながら去っていきました。何か主イエスは、この若者がまじめに人生問題について尋ねてきたのに対して、不誠実な答え方で返しているようにみえるかもしれません。なぜなら、主イエスは、永遠の生命を得るための条件を突然値上げしているように見えるからです。しかし、主イエスが若者に指し示されたのは、「命に入りたいと思うなら、まず何よりも、ただ一人よい方である父なる神を見上げよ、その父が日々あなたに臨み語りかけて下さるみ言葉に聴き従いなさい、十戒の「殺すな、盗むな、姦淫するな・・・」は、結局「あなた自身と同様、あなたの隣人を愛しなさい」ということであり、あなたをもあなたの隣人をかけがえのないものとして顧み愛し給う父なる神の愛に応えていきなさいということです。それなのに、この若者は「神のいましめ」を十戒の字面に矮小化し、自分に都合よく狭く解釈して行って、戒めを満たしたつもりになっていたのです。しかし、彼が富につかり切って贅沢三昧の生活をし自分を正しい者、何の問題もないと思っている、その足元には、貧しい人々が、飢えや病を負ってあえぎながら生活しているのです。そのことに何の痛みも感じることなく日々を過ごしている、その彼の存在の奥底には虚無の闇が広がっているのです。彼に注がれ、貧しい隣人にも注がれている神の愛の光を受け取らず身を閉ざしているからです。彼のそのような存在が神の前に問われているのです。この神の問いかけに応えるには、主の言われる通り、持ち物を売って貧しい者に施し、自ら貧しい者の一人となって主イエスに従っていくほかはありません。しかし彼にはそれができないので、悲しみながら去るほかはなかったのです。しかしその悲しみにこそ希望がある、それは彼に吹いてくる神の国からの招きの息吹きのそよ風なのです。

2019年06月17日