説教 3月10日 「子供たちを祝福する主イエス」

マタイによる福音書19章13〜15節

主イエスが離婚問題についてのパリサイ人の質問に対して「神が合わせられたものを人は離すことができない」と答えられたとき、主が見つめていたのは、離縁状を書きさえすれば赦されるとして、妻を捨てる男の身勝手、神への反逆、また子供と一緒に捨てられる母親たちの苦難であり、それによって子どもたちの負わされる苦難であったことでしょう。今日世界のいたるところで、社会の底辺の子どもたちは貧困や戦争や暴力のはびこる状況におかれています。日本でも、貧富の格差が広がり、特に母親たちの貧困、子供たちの貧困が、深刻な問題になっています。主イエスの時代の民衆も土地を奪われ借金地獄などで、貧困化して住む場所もなくなってしまう人々が多く出たと言われます。その様な中で、離縁された母親たちと子供たちはどのような状況におかれたことでしょう。主イエスはそのような母親や子供たちに出会ったのではないでしょうか。人々が子供たちに手を置いて祈ってもらいたくて連れてきた、とあります。その子の母親が、自分は生活にも疲れ、この子につらい思いばかりさせている、せめてイエス様に触っていただき祈ってもらったら、と思ったのかもしれません。親のない子を親切な知人がつれてきたのかもしれません。それぞれ切実な思いで、子供たちをつれてきました。ところが、弟子たちは、この人々をたしなめた、叱り飛ばしたとあります。弟子たちは、彼らことを不快に思ったのです。しかし、主イエスは言われました。「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところにくるのをとめてはならない。天国はこのようなものの国である」と。いろいろな子供たちがいたでしょう。行儀のよい子供たちではなかったかもしれません。主イエスは、、この子供たちをも拒みませんでした。いやそれだけでなく、子どもたちが寄ってくるのを、大変喜ばれ、弟子たちが、子どもたちや母たちを叱るのに、猛然と反対されていわれました。「神の国、神の恵みの支配は、この子供たちのような者の国である」と。そしてこの子たち一人一人に手を置いて祝福されました。それはこの子たちが無垢であるとか、かわいいということよりも、誇るような何も持たない、地位も力もない、無防備なちいさな、癖も欠点もいっぱい持っているあるがままの子供たちのところにすべての人を照らす神の国の輝きが表れているのを見られ、神を賛美してそう言われたのです。神の国に入るために、知恵とか知識とか力とか善行が必要なのではありません。あるがままでいいのです。あなたがただあるがままでいるいるその場所に神ご自身の側から、すでに恵みとして、わたしはいるよ、と語りかけ迫っている神の支配、その単純な事実をただ受け入れさえすればいい、受け入れるしかないのです。子どもたちからそのことを学ぶことができます。

2019年06月17日