説教 3月3日 「離婚についての主イエスの教え」

聖書 マタイによる福音書19章1〜2節

主イエスが、民衆と過ごしたガリラヤの地に別れを告げ決然と受難の地であるユダヤの地に入ると、早速パリサイ人たちが主イエスに思想調査の尋問をしてきました。「何かの理由で夫がその妻を出すのは許されるのか」と。主イエスは、「普通の生活」から落ち結婚にも破れて孤立し彷徨う人々をその傷ついた魂のまま受け入れました。だから律法学者たちは、主イエスの結婚観は緩いものと予想して、訴える材料をえようとしたのでしょう。しかし主イエスの答えは彼らの想像を超えた者でした。「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者ははじめから人を男と女に造られ、そして言われた。それゆえに、人は父母と離れ、その妻と結ばれ、一体となるべきである。』だから、彼らはもはや二人ではなく、一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない。」パリサイ人たちは、これはまた厳しすぎと、反論して言いました。「ではなぜモーセは、妻を出す場合は、離縁状を渡せ、と定めたのですか」と。主は答えられました。「モーセはあなたがたの心がかたくななので、妻を出すことを赦したのだが、初めからそうではなかった。そこでわたしはあなたがたにいう。不品行のゆえではなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである。」モーセは妻を捨てる男の身勝手へのせめてもの歯止めとしてこう命じたが、これが本来のものではない、結婚とは、「神は人間を男と女に造られた」という神によって創造された人間の根本の在り方に由来するのだ、と言われたのです。創世記1章の27節に「神は自分の像に創造された。神の像に創造し、男と女に創造された」とあるのがその典拠です。そもそも神ご自身一人ぼっちではない、神は愛そのもの、共に生きる関係を含む方で、人間はその愛があふれでて注がれる相手、神のパートナーとして造られた。そのことの反映・似像として、造られた人間の方も一人ぼっちではない、典型的に男と女の間にあるような人と人の向き合い、支えあいとして造られた。そのことに基づいて「それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結び合い、一体となるべきである」と創世記2章24節に意義深く記されているというのです。結婚とは、特定のある男性と特定のある女性が、彼らが自己中心な思いにとらわれる罪の者であるにもかかわらず、不思議にも互いの出会いの中で、永遠の神の愛に支えられ導かれて、互いに生涯共に生きる決断をすることです。そして結婚生活とは、罪のゆえに起こるお互いの様々な行き違いや壁や溝を神の側から克服され、赦しあう一致が生み出され共同生活が日々に続けられる恵みの出来事にほかなりません。だから「一つとなるべきである」と訳されている言葉は、日々神に支え-導かれて「一つになるようになっている」という約束の言葉・福音として訳されるべき言葉であります。

2019年06月17日