説教 2月24日「使徒信条講解⒂ -罪の赦し」

聖書 マタイによる福音書18章21〜35節

使徒信条は、父なる神への信頼を告白し、またそれは父が私たちの罪を担い取り赦し私たちをご自身の子とするために送られた独り子イエス・キリストへの信頼であり、父が子と共に私たちの心に臨んでご自身を現わし、「私(たち)がいるよ」と私たちを慰め支え力を与えて下さる聖霊の働きへの信頼であることを言い表し、故に私はどんなときも確かにされ大丈夫、孤独ではない、と告白しています。今日は、これまで続けてきたこの使徒信条の最後の段落、聖霊の項の罪の赦しについて主イエスが語っておられる言葉を聴きたいと思います。ある日弟子のペテロが、「兄弟がわたしに罪を犯したとき、わたしは何度赦さねばなりませんか、七たびですか」と尋ねました。それに対する主の答えは驚くべきものでした。「いや七を七十倍するほどに赦しなさい。」それに対してペテロは、「そんなぁ、無理」という顔をしたのでしょう。主イエスは、「天の国」とはこんなものだ、とたとえ話をされました。天の国とは、私たち人間同士がかかわりあっているその背後にそもそもの隠れた背景・前提としてある神との関係=神の王としての支配という圧倒的な現実のことです。さてその天の国とはどういう者であろうか。それは、王が、自分に一万タラント借りている僕と借金の決済をするようなものだ、というのです。一万タラントとは、労働者が6千万日働いてもらう賃金の総額です。人は神に対して、これだけの借りがある、人は神にすべてを負っている、そのことに感謝もしない、それどころか、自分を「神」として、日々当たり前のように神をも神の大切にされる自分をも隣人をもないがしろにしたり傷つけたりしている、そこにはどれだけ神の忍耐があったことでしょう。だから、たとえて言えば、王からの決済要求は一万タラントを、自分も妻子も含めすべてを売って返せということにならざるを得ない、しかし王は僕が返そうとしても返すことができないことを思い、その身が引き裂かれるほど「憐れ」に思い、あえてすべてを帳消しにしてしまう、人の罪をなきものとして無罪として下さっている、これが神が王として私たち罪びとになさって下さっていることなのだ、というのです。ペテロよ、君は誰かが自分に犯した罪を赦せずに怒っている、しかし神を見上げ君が神から受けた赦し、憐みの大きさを知りなさい、そうしたら、隣人を責め続けることはできないはずだ、と主イエスは言われるのです。しかし件の僕は、王から赦されて王のもとを去ると、僕仲間が自分から借りていた百デナリを思い出して、「借金返せ」とこの仲間を責め立て牢屋につないだ、こういうことは王としても許すことはできなくなるのではないだろうか。よく考えなさい、と言われたのです。私たちも、憐みの神の支配を心に刻み、負債ある隣人を赦すことができますように!

2019年06月17日