説教 6月25日 「病の癒し、死人の復活」

聖書 マタイによる福音書9章18~26節

主イエスが、洗礼者ヨハネの弟子たちと言葉をかわしあっていたそのところに、いきなり一人のユダヤ社会で有力な人が、ひれ伏して、こういいました。「私の娘がただ今死にました。しかし手を置いてやってください。そうすれば、娘は生き返ります。」どんなに権力や富をほしいままにしていても、愛する娘の死を前にしてはどうにもなりません。人は死の前には無力です。主イエスとその弟子たちは、は当時の社会の中で、放浪しつつ教えを説いて歩く旅芸人のような人々です。しかし、この有力者は、人々の噂から、この人は神の人、彼を通して神が働き、どんな病も癒される、死人も甦らせられると聞いていたのでしょう。彼は、恥も外聞も、地位も力もふり捨てて、イエスの前にひれ伏して、娘を生かしてやってください、と頼みました。その一途なな思いに主は答えて、この人の案内で彼の家を目指してついていきました。弟子たちも群衆も一緒だったでしょう。その群衆に紛れて、一人の女性が身を隠しつつ、イエスの後ろから近づき衣の房に震える手でそっと触れました。彼女は、止まらない生理出血に苦しんでいました。当時の社会では、出血のある女性は、汚れているとされて、共同体から遠ざけられ、触れ合うことさえ禁じられていました。病気の不快感とみじめさ、人びとから避けられ差別される悲しみと孤独の中から、彼女もまた、すべてをイエスにかけ、その衣の房にでもふれれば、私の病気は癒される、と恐れる心と震える手で、その後ろから衣の房にふれたのです。しかし、イエスはすぐに気が付き振り向いて彼女を認め、はっきりとした声で、答えられました。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」この「しっかりしなさい」とは「大丈夫、心を大きくもっていいのだよ」あなたはあなたに働く全能の神の愛にあなたを委ねた、その全能の神があなたと共にあり、あなたに働いて下さっている。だから安心しなさい」ということです。その時この人は癒されました。このイエスの言葉は、私たちにも向けられています。その一部始終の間、あの有力者は待たされ、忍耐させられ、やっと彼の家に着いたときは、家は少女の死の悲しみや落胆でいっぱいでしたが、しかし、大丈夫、主にあってはすべてが可能なのです。主イエスは、「娘は死んだのではない。眠っているだけだ」と言われ、人びとを追い出し、死んで横たわる少女の手を取ると、少女は起き上がりました。主にあっては死でさえも眠りにすぎないのです。わたしたちは、この世の命の絶えるそのととき、全能の恵みの神を仰ぎ見、神が下さる神の栄光に輝く命の恵みを望み見るのです。この少女の復活の出来事はその終わりの日に起こるべきことの前触れにすぎません。

2017年09月12日