説教 2月17日 「もし兄弟が罪を犯すなら」

聖書 マタイによる福音書18章15〜20節

「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、」あなたはどういう対応をなすべきか?もし、だれかが少なくともあなたには、放ってはおけない過ちに落ちっているとするなら、どうするか?福音書記者マタイは、イエス様が地上にあった時すでに後の教会のために語られた言葉をとして、伝えているのが、今日の個所です。その時は、まずはその人自身が自分で過ちに気が付いてくれるのを待って我慢するでしょう。しかし、我慢も限界に来ると、憎しみや恨みに変わることがあります。レビ記19章17節の「あなたは兄弟を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろにいさめて、彼のゆえに罪をおってはならない。・・・あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」とあるのは、そういう私たちの心に向って鋭く打つ言葉です。「ねんごろに」とは、あなたの心をもって、心を開いて、という言葉です。主イエスの言葉は、レビ記のこの言葉の具体的適用と言ってもいいでしょう。「もし、兄弟が罪を犯すなら、行って彼と二人だけのところで忠告しなさい。」ここにも「あなたがたは、これら小さい者の一人も軽んじないように」という言葉が生きています。その人を大切に思うなら、やはり、一人でその人に赴き、さしでむきあわねばなりません。そうしてこそ、わたしもその人に心をもって語ったことになるし、その人も私に対して心を開いてくれやすいのではないでしょうか。さらに大切なことは、わたしはその人に対して、「正しい」人間として立ち向かって忠告してやるというのではないことです。唯一正しいお方である神の前に自分も砕かれつつ、互いの言葉を聞きあい、問いあい、語り合う、ということです。そして主は言われます。「もし聞いてくれれば、あなたは兄弟を得たことになる。そうです。あなたは、兄弟を彼を虜にして神から遠ざけていた罪のもとから、喜ばしいことに、兄弟が本来いるべき神のもとへ、兄弟を取り戻したのです。しかし、兄弟が聞いてくれず、はぐらかしたり、無視したり、逆切れしたり、ということもあるかもしれません。その時は、主は言われます。「証人として一人、二人に一緒に行ってもらう、それでもダメなときは、教会に訴える、それでもダメなときは、つらいことだが、兄弟を主の教会の交わりから追放するがよい、と主は言われます。あなたがそのように神の前に兄弟に心尽くしてなお、悔い改めないなら、彼を罪に「つなぐ」、そのとき、天でも「繋がれる」。神さまも彼を罪とするであろう。だから、悔やむな、しかし、同時に、そのことは、彼を主の救いから究極的に追放したということではありません。その彼のためにも主は十字架につかれ、死なれ復活されたのです。だから、私たちは、罪に「繫いだ」兄弟を、同時に、罪から「解いて」主の許しの御手の働きに委ね彼のために祈るように促されるのです。

2019年06月17日