説教 2月10日「小さき者の一人もつまづかせないように」

聖書 マタイによる福音書18章5〜14節

主イエスは、無所有の小さな幼な子と同じ低みに自分を小さく低くしなければ、天の国に入ることはできない、と言われ、こう続けられました。「私の名ゆえにこのような一人の幼な子を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」主イエスが、幼な子一般でも、幼な子の群でもなく、「一人の幼な子」と言っておられることに注意したいと思います。「あなたがたはこれら小さな一人をも軽んじないようにしなければならない」と。百匹の羊を飼っている羊飼いなら、一匹が迷い出たなら、あとの九九匹を山に残しておいて、その一匹探すように、です。千葉県野田市で起こった心愛ちゃんの父親による虐待死事件でも、教育委員会や児童相談所がこの小さい一人の命とその叫びを重く受け止め守る思いがあれば、たとえ父親であってもその命を脅かす者の手に幼な子を引き渡すことはしなかったと思います。一切を越えた人間の創造者なる神への感覚の薄い日本人の意識の中では、神のものである小さき一人の尊厳は、家族とか民族・国家やその上に立つ権威の支配の中にかき消されてしまいがちなのです。神を知らされている私たちは流されないように気を付けよう!主イエスは、私たちが、このような幼な子、最も小さい人々の一人を、この世の何物にもまして大切にうけとめるように命じられます。詩篇68篇5節にあるように「聖なる住まいにおられる神」とは、「孤児の父、やもめの保護者」なのであり、「彼らの天使たちは、天にいます父のみ顔を仰いで」小さき者たちのために訴えているのです。だから、私たちは一人の幼な子、一人の身寄りのない貧しい人に大切にかかわることを通して、神の愛を深く知るのです。それゆえに、その幼な子の低みを離れて高ぶる者、高ぶって小さい者を躓かせる者は、神とのつながりから、落ちているのです。だから、主はこのようにすら言われます。「私を信じるこれらの小さい者の一人を躓かせる者は、大きな碾臼を首にかけられて海の深みに沈められるほうが、その人にとって益になる。」なぜ、そこまで言われるのでしょうか。私たちが、一人の小さき者に対する神の愛から離れ、彼らに立ちふさがり、彼らへの神の愛・守り、神が彼らに下さる希望を見えなくしてしまうのは、私たちの足元に底なしの闇の淵が広がっていることなのに、そのことを知らずにいることは不幸であり、その不幸を知って神を求めてもがくようになることは、その人の益であるからではないでしょうか。また主イエスは、「もしあなた方の片手・片足が、片目が、小さき者の一人を躓かせるなら、それらを切って捨てたがよい」とまで言われます。私たちは何回小さき人の一人を躓かせたことでしょう。その様な私たちのために主ご自身が、私たちに代わって十字架にかかって足にも手にも激痛を味わわれたのだ、と思わされました。

2019年06月17日