説教 2月3日「「天国で一番偉いのは幼な子です」

聖書 マタイによる福音書18章1〜5節

主イエスは、御自分が苦しみにあい、十字架につけられて死んで復活することになるエルサレムを目指して弟子たちを連れて突き進みつつあります。その道中、弟子たちが主イエスのもとに来て尋ねました。「天国では誰た一番偉いのか?」それに対して、主イエスは、弟子たちの真ん中に一人の幼な子を呼び寄せて言われました。「よく聞きなさい。この幼な子のように自分を低くする者が天国で一番偉いのである。」主イエスが弟子たちの真ん中に幼な子を立ててこう言われたとことは弟子たちには思いもよらないことであったと思います。弟子たちが「天国では誰が偉いか」ということで議論していたのは、人の地位の高さや能力や業績のことであったと思われるからです。しかし、主イエスが天国で「偉い」者として示されたのは、地位もなく、能力もなおまだだし、業績もない幼な子でした。しかし、、この幼な子のようにならなければ天国で偉くなれないどころか、天国に入ることすらできない、と言われるのです。この個所から人々がすぐ思うことは、子どもは大人のように自分を偽ったり、よこしまな心をもったりしない、ということです。しかし子どもは直截なだけに、しばしば人を傷つけてしまうこともあります。自分を守るために嘘をつくこともあります。ある人が自分の子供を保育園に連れて行ったら、他の子供たちが、彼の頭の毛が薄いのを見て、「禿、禿げ。禿げ頭」と言ってはやし立てたので、腹が立ったので、子どもたちを、「コラーっ」と大人げなくも追っかけてしまった、と言っていました。主イエスは「この幼な子」のごとく自分を低くする者は、と言われますが、幼な子の常としてて、何かに一番になれば、それこそ自分を低くするどころか自慢吹聴します。そこがかわいいところです。では主イエスはどういう意味で、「幼子のようにならなければ」といわれたのでしょうか。それは、子どものふるまいが大人の模範であるということではなく、子どもたちの存在の現実を見つめておられたのではないでしょうか。子どもは小さい、頼むべき財産も業績も持たない、貧しく無所有であります。このことを指して、主はあなた方もこのようにならなければ、天国で一番偉いというどころか、天国に入れないと言われたのではないでしょうか。神は土の塵で人を造られました。人は本来無一物です。何も持たずに生まれ、その生涯の終わりには何も携えていくことはできません。ところが人がそのように」貧しくあるところ、低いところにこそ、人間本来の場所があり、そこにこそ、父なる神は臨み給い、豊かに命を与えてくださるのです。本来無一物とは仏教の用語です。しかし真実を言い当てた言葉です。本来無一物の私たちの貧しさの中にこそ、神は豊かな恵みをもって臨んでくださり、一日一日の命を下さるのです。

2019年02月11日