1月27日 説教(交換講壇日)「祈る姿勢」 渡邊宣博牧師(赤間教会)

聖書  詩篇5篇1〜13節

私たちは時に人との関係に疲れ果て、思い煩う時があります。苦しみ苛立ったりします。相手方に悪意が感じられるようであれば,尚更のことと思います。憎しみや怒りすら湧いてくることがあって、詩篇五篇の彼が「悪人」(4節)、「悪を行う者」(5節)に苛まれていたように、中々敵を愛し、自分自身を迫害する者のために祈りなさいという気持にはなれないものです。
けれども相手を見て苛立ちつぶやいていた彼が、いつの間にか自分自身に目を向けるようになっています。確かに相手は悪人かもしれない。然し私自身はどうだろうか。いくら相手のことを悪人だの何だのと言って訴えても、自分自身の姿勢が神様の前に、大切な隣人の前に愚痴ばかりこぼして当たり散らして崩れていたのでは何にもならない、と彼は自分自身に目を向け始めたのです。
 「しかしわたしは、あなたの豊かな慈しみによって、あなたの家に入り、聖なる宮に向ってかしこみ伏し拝みます。」(7節)わたしはこう思うのですが、彼はつぶやき続けているうちに、祈り続けているうちに、問題は相手ではなく自分自身だということに気が付いたのではないでしょうか。勿論依然として相手の方に悪意があるのです。しかし相手の悪意は変えることができない。ならば神の前に自分自身を整えて、相手のことは神にお任せしよう。相手がどんな態度をとってこようとも、全て神様がご存知の、神の手の中にあることなのだと信じ、思い煩わないようにしよう。神様が正義を愛され、正しく裁かれる方なのだと信じよう。その様な方の前に、まず自分自身を、深い慈しみを抱く者として、神を畏れ敬う者として整えていくことが大切です。そうすれば神様は、歓びを与え、祝福してくださると信頼しよう。その心構えに彼は自分自身を置き直したのだと考えます。
つぶやかない人は誰もいない。皆つぶやきます。つぶやかずにはいられないような苦しみや疲れを抱えています。つぶやきからはじまる祈りもあると思います。
しかし神に向って心からつぶやくなら、いつか神が聞き分けて下さることを知ると思います。神はたとえ苦難の中を歩む時でも、いつでも私たちが主を呼び求める声を待っておられます、そしてそのつぶやきはいつか必ずや自分自身への内省と神への信頼へと変えられていくでしょう。
 神を信じ求めている方とは、そんな自分の置き直し、思い直しができる恵みを知っている人です。神のもとで人との交わりの中で生きていくことは、つぶやきと思いなおしの繰り返しの中で、神への信頼を深めていくことにほかならないと思いました。 

2019年02月11日