説教 1月20日 「「神の子の受難と復活と自由」

聖書 マタイによる福音書17章22〜27節

彼らがガリラヤで集まっていた時、イエスは言われた。「人の子は人々の手に渡され、彼らに殺され、そして三日目に甦るであろう。」今主イエスは、ユダヤの支配者たちとローマ帝国総督ピラトに引き渡され、死刑の判決を受け十字架にかけられて殺され、そして死人の中から甦られることになるその場所であるエルサレムに向って、弟子たちを連れて、ひたすら南へと向かっています。その言葉を聞いて「弟子たちは非常に心を痛め」その意味を問うことさえできませんでした。
ただ、主イエスは、そんな時にも、快活で、のびやかでありました。今日の主のふるまいには、ユーモアさえ感じさせるものがありました。神殿税を集める役人たちが弟子のペテロのところに来て「あなたがたの先生は宮の納入金を納めないのか」と言ってきたのでペテロは彼らを怖れ、即座に「納めておられます」と答えました。実は主イエスは、納めていなかったらしいのです。彼らの生活は貧しく神殿税納付金2ドラクメさえ持たなかったのです。一部始終を見ていた主イエスは、ペテロの気持ちを察して問うてこられました。「この世の王たちは税や貢を、自分の子からも取るのかか?」ペテロが、「いいえ」と答えると、主イエスは、こういわれたというのです。「では、子らは納めなくていいわけだ。「しかし、彼らを躓かせないために、海に行って釣り針をたれなさい。そして最初につれた魚を取って、その口を開けると、銀貨スタテラ1枚がみつかるであろう。それを取りだして、わたしとあなたのために納めなさい。」実に楽しい話です。おいおい、何でそんなに神殿当局を恐れるんだね。神殿の主は、私たちの父なる神さまだろ?神の子らは神殿税を納めなくていいんじゃないか、ということです。でもまだ父の国は来ていない、この世の権力を持つ人たちが、支配しているかのような世界だから、彼らを躓かせないために、税は納めよう、でもお金はないから、魚を釣りにいきなさい、釣った魚が払うべき税金を咥えているよ。」
 ここには、主イエスにおける神の子の自由が語られています。自由とは何でしょうか。自分勝手ができるということは、自分の欲望に縛られているわがままであって、自由ということではありません。そうではなくて神に対して、隣人に対して心がのびのび開かれていることではないでしょうか。どんなときにも御子なるイエスは全能の父なる神の愛に輝かされて、自由な方でありました。人々が主を逮捕した瞬間にも、祭司長たちの不正で一方的な裁判の際にも、ローマ帝国の地方総督ピラトの裁判においても、十字架につけられて死ぬときも、神の子のそのような自由の中におられました。そして、そして、復活されて、私たちをご自身のもそのような自由の輝きの中において下さったのです。

2019年02月11日