説教 1月13日 「「からし種一粒の信仰があれば」

聖書 マタイによる福音書17章18〜22節

標記の題は、20節の主イエスの言葉からですが、これにあたる原文の言葉を新共同訳の日本語訳のように「一粒ほどの」の「ほどの」を除いて単に標記のよう解しました。神に信頼して身を委ね、他者に仕えんとする信仰者の己を小さくする祈りに対して、全能の神ご自身の力が働くことをそれは語っているからです。
山の上で三人の弟子たちの前で一瞬現れた主イエスの輝く神の子の栄光の姿は、「これはわたしの愛する子、これに聴け」との神の御声と共に雲に隠され、主イエスは、低みにある日常の人の姿となって弟子たちと山をおりられました。すると一人の父親が、主の前に跪き、「私の子を憐れんでください。癲癇で苦しんでいます。何度も火の中、水の中で倒れるのです。お弟子たちには治していただけませんでした」というのです。主イエスはそれに対して、「ああ何という不信仰な、曲がった時代であろう。その子をわたしのところに連れて来なさい」と言われました。
癲癇という病気は、発作が起こるとマルコによる福音書ので並行箇所で「霊がこの息子に取りつきますと、どこでも彼を引き倒し、それから泡を吹き、歯を食いしばり、体をこわばらせてしまう」で言われているような症状があり、しかも、心神喪失状態なので、「霊は、この子を火の中水の中投げ入れて殺してしまう」とあるように、昔は特別苛酷な霊がとりつき命を危険にさらす病気と見られていました。しかし現代では、脳の細胞間に流れている微弱な電流の短時間の興奮のために起こるものということが分っています。確かに発作の時は危険ですが、そのとき周りの人が適切にケアすれば、発作は数分で終わり続いて深い眠りに落ち、あとは何の痕跡も残さず普通に生活することができ、発作をも今ではある程度薬で制御することもできると言われています。周りの人に大切なことは、発作症状に心奪われて興奮して慌てたり恐れたりしないで、その人の存在に対する確固とした肯定的な姿勢を保って落ち着いて対応することであります。つまりこの発作を起こしている病人をご自身のものとして引き受け発作を取り除いて下さる神に信頼し病人を神に委ねて一々の情況に対して冷静に対応することです。主イエスが、癲癇の子の父親が、「私を憐れんでください」と主に願い、弟子たちが治すことができなかったといったとき、主イエスはなぜ、「不信仰な曲がった時代」を嘆かれたのでしょうか。それは、主イエスが、父親の願いに真に答えて、この子を心から憐れまれた、御自身の腸の痛みとされ、父なる神の憐れみの手に委ねられた時に、世の人々の、この苦しんでいる子供とその父親に対する偏見や差別に満ちた態度について嘆かれた言葉ではなかったでしょうか。またそれに影響されてしまった父親のわが子への偏見に対する嘆きや、どこか自分の「信仰」の力により頼んで癒そうとした弟子たちの神への信頼の足らなさでもあったでしょう。しかし主イエスは、確固とした神への信頼、己を小さくする「からし種の信仰」によって、悪霊をこの子から追い出すことができました。

2019年02月11日