説教 11月25日「万物回復の接近」 

聖書 マタイによる福音書17章9〜12節

ある日主イエスは、ペテロたち三人の弟子だけを連れて山に登り、そこで一瞬輝いた姿に変貌した時がありました。主イエスは、まさにそこで姿を現した栄光の神の子が、その栄光の姿を背後に隠され私たちの肉を取って人となられ、私たちのために苦しみを受け、殺され、死人の中から甦られるという驚くべき道を歩まれた方でありました。それは、私たち人類がその罪を取り除かれ主と共に神の子として輝くためでした。罪とは、人類が神から神の子・神の形として造られたのに、神に背を向けて、各々自分が中心、神にも隣人にも壁を設け朽ち行く自分の栄光を求めて、神の栄光を受けられない悲惨な状態にあることです。その罪が、私たちの業によらずただ御子イエスの死と復活によってなされた父なる神の大いなる恵みによって、担われ裁かれて取り除かれ、私たちは、御子の命にあずかって、神の子らとして父なる神を愛し互いに御子の兄弟姉妹として支えあって生きるものとされたのです。これが救いです。強大なローマ帝国の抑圧支配とその後ろ盾でユダヤの王を称するヘロデ家の支配のもとにあった主イエスの当時のユダヤの民衆は、神の正しい裁きによってこの罪の世の終わらせる裁きの日を待ち望んでいました。昔予言者たちが、終わりをもたらす真実の王・キリストが来ることを神に託されて告げていたからです。主イエスは、そのキリストとして来られ、弟子たちもそう信じてついてきたのに、主御自身が、多くの苦しみを受け、殺されて甦らねばならないと言われるので、衝撃を受けていたところ、今度は栄光の姿で現れるのを見て、ペテロたちは心が高揚し、主に尋ねます。「やはりあなたは来るべきキリストなのだ、しかし律法学者たちがキリストの前にエリヤがまず来なければならないと言っているのはなぜでしょう」と。主は答えられます。「エリヤはすでに来た。ただ人々は彼を認めようとせず、自分勝手に彼をあしらった。人の子もまた彼らから苦しみを受けることになろう。」その時弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだ、と悟った、と福音書は告げています。キリストの来臨を待ち望んでいた当時の民衆に対して、旧約書最後の預言のマラキ書に「主が来臨し終わりの裁きがなされる前に、まずエリヤが再臨して万事を整えることが語られていたのに基づいてこれが語られていたのです。マラキ書は、遠い昔暴虐の王に向かって預言したあの人が再臨して終わりの日の裁きを告げ、上に立つ者の驕りと頑なさを打ち砕き、神のヘリ下りに倣ってその心を子に向けさせると告げていたのです。それはあのヘロデに向かって預言して殺されたあの洗礼者ヨハネだった、そして私も苦しまねばならないと主は言われたのです。まさにエリヤもキリストも救いをもたらす神の人は苦しまねばならないのです。

2018年12月29日