説教 11月18日 「永遠の輝きの中に立つイエスを見た」

聖書 マタイによる福音書 17 章1〜8 節

マタイによる福音書 17 章1〜8 節

主イエスが、御自分が受けなければならない多くの苦しみ、殺され甦るべきことを告げ、弟子ペテロが主を叱り、サタン後ろに去れ、と言われて七日目のことでした。主イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて登られた山で突然、目の前で、貧しい姿から輝ける姿に変貌され一同を驚かせ狼狽させられました。しかし、そもそも主イエスの地上における貧しい姿は、父なる神が神に背く罪びとをご自身の子として招くために、御自身を低くして人の肉をとって現れて働かれたということであります。だから主イエスの存在と働きの根っこには、神の栄光の輝きがその一挙手一投足にあふれ出ているのです。しかし、自己中心で神に背を向けてしまった人間の目には見えません。ただ神を仰ぎ、神が聖霊としてその心に下り示されてのみ、それが彼に分るのです。事実、神の栄光の輝きは、主の飼い葉桶での貧しい誕生からその十字架上の悲惨な死の時に至るまで、そのすべての瞬間にその背後から主を照らし支え導いていました。弟子のユダによってユダヤの権力組織に引き渡されたときも、大祭司の裁判の前に有罪を宣告されたときも、十字架上で激痛に耐えながら人々の嘲笑を受けていた時も、墓に葬られ、虚無と死の中に横たわっていた時も、その彼において神の栄光が彼を照らしていました。そしてその神の栄光の力は、ついに主を甦らせ、人々の前に輝かせ現わされました。そして、父なる神は、主イエスを地上から天にあるご自身の栄光の中へと引き上げられました。その主イエスは、今父の右にあって世を治めておられ、聖霊として私たちに臨んでくださいますが、来たるべき日にその栄光の姿で来て下さり、すべての人をその栄光の座の前において、それぞれの歩みが、その輝きの前にどういうものであったかを現わして、裁かれるのであります。
父なる神は弟子たちの前に、御子・主イエスを、ご自身のその栄光の輝きの中に一瞬だけ現わされたのであります。何のために父なる神はこのことをなさったのか、それはこれから主イエスは「多くの苦しみを受け、殺される」ことによって、失なわれ、闇に葬られるのではなく、その苦しみと死においてこそ、ますます神の栄光を現わし、死にも罪にも虚無にも勝利されるのだ、ということを示し、だから「これに聴け」と、落胆しそうな弟子たちを支え励ますためではなかったでしょうか。この神の栄光の中に輝かされるということは、主イエスだけが輝くためではありません。」全人類一人ひとりが、みんな御子主イエスの兄弟として輝くためでありました。そのために主は、「多くの苦しみを受け、殺され」たのです。そして神の栄光を受けて輝くとは、神の恵みの満ち満ちたる者を受けて、神を仰ぎ愛し、神が私たちを愛してくださるように、互いに愛しあい支えあうことにほかなりません。

2018年12月29日