説教 11月11日 「十字架を負うて従う命へ道」

聖書 マタイによる福音書 16 章21〜28 節

ペテロは、主イエスの「私を誰というか」との問に対して、「あなたこそ生ける神の子キリスト」と答え、主はこのことはあなたに現わしたの、あなた自身からではなく、天にいます私の父なのだ、あなたは幸いだ、とペテロを祝福されました。しかし、そのペテロが主について、大変見当違いのことを考えていたということが明らかになります。なぜなら主はは、この時から御自分が、「必ず自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから、多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目に甦るべきこと」をあからさまに弟子たちに示し始めますが、ペテロは、主をしかりつけて言います。「そのようなことがあるはずはありません。神のご加護を」と。主を苦しめる「長老、祭司長、律法学者」とは、ローマ帝国支配下でユダヤを統治する権限を持っていたサンヘドリンの構成員でした。しかし主イエスは天と地の造り主・全能の父なる神の子です。神の子、神が遣わした世界の王が、世の権力者に殺されるなんてありえない。「先生どうかしてる」と思ったのです。それに対して主は言われます。「私の後ろに立ち去れ、サタン、君はわたしの躓きだ。」どこで、ペテロは、主イエスから離れてしまったのでしょうか。」あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」という言葉が、私たちの胸を貫きます。主イエスは、父の意思に従わんとしておられました。ご自分が「必ず」あのユダヤの権力者たちから苦しみを受け、殺される「べき」だ、と言われた言葉はそのことを表しています。子よ、彼らのところに行くのだ、と父より押し出され、主は決断し従ったのです。なぜ神は御子をこのような苦しみと死の道にあゆませ給うたのでしょうか。それは、私たち人類が造り主なる神の愛に背を向け自分を中心にして悲惨な状態になっているからです。神はどうしても人類すべて、私たち一人ひとりからその罪を取り除き、人類がご自身と共に生きる命の道に立ち帰らせねばやまないからです。どんなに神は私たち罪びとを愛しておられることでしょうか。そのために神は、御子をユダヤの片隅に送ることによって、この世のすべての人々のところに送られたのです。そして、あえて御子をユダヤの権力の中枢の人々に引き渡し、彼らが主イエスを殺すがままにして、彼らと同時にまた人類すべて私たち各々の罪を露わにし、裁かれました。しかしその罪を彼ら・私たちに負わせず、御子に負わせ、御自身が引き受けるという仕方で、人類から罪を取り除き赦されたのです。そして御子を甦らせて、人類すべてがこの御子の甦りの命にあずかって、御子の兄弟、神の子らとして、神の栄光に輝いて生きる道を開かれたのです。ペテロは、その神の御心に従わず、神から閉ざされたままの人間、肉なる人間を守ろうとして、神の御業に立ちはだかってしまったのです。

2018年12月29日