説教 11月4日 「キリスト告白に生きる教会」

聖書 マタイによる福音書 16章13〜19 節

九州キリスト教会館火曜礼拝でも、ほぼ同じ内容でメッセージしました。
ピリポ・カイザリヤという町でのことでした。主イエスは弟子たちと真顔で向き合い、わたしを誰と言うかと尋ねられました。その問いの迫力に押されるように、ペテロが「あなたは生ける神の子キリストです」と答え、それに対して主は、あなたは幸い、このことをあなたに現わしたのは、血肉ではなく、天にいます私の父であるからだ。」と言われました。このペテロの告白は、私たち教会の告白でもあります。私たちも「イエスは神の子・キリストなり」、あのイエスにこそ、天と地とすべてのものを造られた全能の父なる神がご自身を現わして働いておられる、だから、イエスを主と信じ、イエスにおいて働かれた神のみを究極の支えとし、導きとして生きるのです。つまり「キリスト告白」に生きるのです。
ピリポ・カイザリヤは、古くから自然のものすべてを包括するといわれるパンという男神が祭られていた聖所のあったところで、そこに皇帝アウグストの巨大な大理石像も造られ拝まれていました。そこではパンや皇帝にお参りする人々でごった返していたことでしょう。その中で、主があの問いを投げかけ、ペテロが、あなたこそ神の子キリスト」と答えたということは、ただならぬ意味があります。私たち教会が、キリスト告白に生きるとは、人々が真の神に背を向けて、神ならぬ様々なもの、自然のものや人間を格上げ・神格化する中で、それに抗してひたすら、造り主なる全能の父なる真の神のみを神として仰ぎ、その神からきて貧しい小さい人々に仕えられ、十字架につけられて死んで、甦らされ、人類から自己中心とおごり高ぶりの罪を取り去られた独り子なるイエス・キリストのみを主として告白して歩むことであります。
しかし、どこにその確かさの根拠があるのでしょうか。その答えとして、あの、イエスこそキリストとして、現わしたのは、血肉ではない、天にいます私の父がそれを現わして下さった、だからあなたは幸い、というイエスの言葉は重要です。「あなたは神の子」と告白したペテロは、このすぐ後、ご自分がやがて殺され死んで甦ると言われた主に立ちはだかり、主から「サタンよ退け」と言われることになります。あのイエスにおいて、神が御業をなされていることをペテロに現わしたのは、血肉たるこのペテロ自身ではなく、主イエスご自身に親しく臨んで御業をなさっていた天にいます御父にほかなりません。もし、あなたこそキリストとの告白が、血肉によるもの、つまりペテロ自身の信仰心によるものやキリスト教教理告白であるなら、それは空しい、独りよがりな思い込みにすぎません。やがて試練のまえに、その信仰も色あせてしまうでしょう。しかし、信仰も何もかも、すべてが失われる中であっても、父なる神が、御子イエスにあって、私たちにいつも新しく親しく臨んで、子よ、と呼んで下さるのです。このことは一厘も揺らぐことも消えることもありません。私たちが振り払おうとしても、振り払えない真理です。
 そのように聖霊として臨み給う父・子なる神の恵み・生けるキリストの真理をそのままに受けつつ、日々の歩みにおいて証ししつつ前進し続けること、これが信仰であり、信仰告白であります。そして、その岩の上に教会は立つのです。

2018年12月29日