説教 10月28日 「使徒信条講解(14)₋聖なる公同の教会」

聖書 エペソ人への手紙4章1〜13節

今日は月の最終聖日の慣例として使徒信条の講解を行います。今日のテーマは、「われは聖なる公同の教会を信ず。聖徒交わりを信ず」です。われは聖霊を信ずということに続いて、これらの言葉が続きます。その「教会」とは、例えば、私たち福岡社家町教会のことです。決して「聖なる」なんて恥ずかしいような世俗の人の集まりであるこのあるがままの私たちの教会の集まりが「聖なる教会」、私たちの交わりが」聖なる者たちの交わり」といわれているのです。またここでいう教会というのは、私たち福岡社家町教会も含む、地区・教区・教団の諸教会、また、他教派の教会・世界の各国の諸教会であります。非常に多種多様です。時間軸でいえば、ペンテコステで使徒たちから始まった初代教会以来、ローマ帝国のもとで迫害されながら、広がっていって、やがて、帝国の国教となり、西ローマ帝国滅亡を越えて、帝国を滅ぼした敵、ゲルマン民族の間にも広がり、ローマカトリック教会として中世西欧社会を統括する頂点に立った教会、その権力腐敗に反対の狼煙を上げて別れた私たちプロテスタント教会の源流となった宗教改革の諸教会、そのカトリック教会が自己改革して、スペイン、ポルトガルなどの大航海時代の世界中への植民地拡大を契機に世界伝道をして広がっていった諸教会(日本のキリシタンの教会もその流れです)、また古代西ローマ滅亡の後生き残った東ローマ帝国に広がり、ギリシャ、中東、ロシアに広がった正教会などなど、すべてが、互いに無限に多様で、互いに争いあいもして来た、そしてこれまた「聖なる」どころか、たとえはエルサレムの住民に暴虐を行った十字軍の例にみられるようなことさえあり、教派と教派が血を血で洗う宗教戦争をも行ったこともあった罪深いあるがままの諸教会が「公同の教会」、「普遍的」(「公同」とは原語でいえば「カトリック」で、その意味は「普遍的」という意味です)教会、一つなる教会、として、しかも「聖なる公同の教会」として、その教会を「我信ず」といわれているのです。どこで私たちは、「聖なる公同の教会」であり、私たちはそれを「信ず」ということが言えるのでしょうか。それは、ペンテコステの聖霊降臨以来世界に広がった諸教会、わたしたちもその枝である諸教会、そしてそこに集う信徒の群れである私たちがすべてイエス・キリストによって召された、つまり、呼び集められた者たちの群れだからです。どんな教会であっても、主から逸脱する罪びとの群れであるであるにもかかわらず、その頭はイエス・キリスト、主が呼び集め、主がその群れを担い、聖霊を注いで導き給う、だから、「聖なる教会」であり、聖なる公同の教会なのです。わたしたちは、そのすべての教会の群れの上に働く聖霊を信ずる!故に、「聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」なのです。

2018年11月08日