説教 10月21日  「共に恵みに与かりつつ成長する」

聖書  ピリピ人への手紙1章3〜11節

礼拝後「教会とわたし」との題で行う懇談会のためにもお話しします。使徒パウロが、彼の宣教を通してできたピリピの教会にあてて書いた手紙の言葉が、私たちが教会に繋がっているその背後、根っこにある神のお働きを私たちに伝えてくれます。この時パウロは獄中にいました。ピリピの教会から送られて彼の世話をしてくれた兄弟が病気のために帰らねばならなくなったので、パウロは、お礼と近況報告と励ましの言葉を書いて、この人にこの手紙を託したのです。
パウロは、ピリピの教会の人たちのことを覚えるとき、いつも私の神に感謝する、と言っています。「私の神」という言葉が出てくるほどに、パウロは祈るとき、神を身近に覚えて祈っています。その祈りの中で、あなた方のことを思う、そのたびごとに、神に感謝でいっぱいになるというのです。それは、神がピリピの人たちに働いている神の恵みのゆえ、つまり、「最初の日から今日にいたるまであなたがたが福音に与かっていること」の故であり「このようにあなた方にあってよい業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、それを完成して下さることを確信していると言います。最初の日というのは、洗礼を受けた日ということです。私たちは、洗礼を受けて、御子イエス・キリストを主と告白し、主の教会の群れに連なりました。生まれながらの私たちは、自分を造り存在させて下さっている神に感謝もせず、隣人を自分の様に愛することも知らず、神なしに自分を中心にして、欲に引きずられながら、おかしいとも思わず生きてきました。自分の働きや持ち物、業績、自分の目の前に現れるものにこだわり、振り回されて、神に対しても隣人に対しても自分を遮断しながら。これが「罪」というものです。しかし、神は御子を、その私のところに送って、私たちの罪をすべて御子に負わせて御子を死に渡して取り除き、御子を甦らせて、罪人の私たちがもはや罪びととしてではなく、御子の甦りの命に与り、神の子として新しく生きるようにして下さったのです。これが福音です。私たちは教会の宣教を通して、魂の奥底に、生ける御子が聖霊として臨み、私たちをその罪の身のまま御自身の命の中に招き入れて下さったのです。それに答えて、私たちは、御子を主として信じ、主の教会の群れに加えられ、、主と共に生きる歩みが始まったのです。また、神の無条件の愛の中に自分が受け入れられたように、他者をその愛の中に受け入れながら人々と共に生きる、他者を尊敬して大切に受け止めることを学び始めました。神が私たちのためによい業を始められたのです。これが洗礼です。私たちは、なおまだもう神によって克服された古い人間=罪の残滓を引きずったままなのですが、神は見捨てず繰り返し私たちを立て直し、神がその始められたよい業を、完成させて下さるのです.。
それはわたしたちの自己完成ではなく、わたしたちが、神の恵みに満たされ、神へのの全き信頼の中に生きる者とされる、ということです。

2018年11月08日