説教  10月14日  「命のパンの問題についての無感覚」

聖書  マタイによる福音書16章5〜12節

パリサイ人とサドカイ人、律法学者と祭司が主イエスのところに来て、天からの徴を見せよ、と言ってきましたが、主イエスは、「邪悪で不義な時代は徴を求める」と彼らを厳しく批判して拒まれました。そのあと、主イエス一行は舟で向こう岸に渡られたのですが、弟子たちはパンを持ってくるのを忘れてしまっていました。その時、主イエスが、「パリサイ人とサドカイ人のパン種にはよくよく警戒しなさい」といわれたものですから、弟子たちは、パンをもってきていないことをとがめられたと思って、動揺し、互いに議論し始めました。
主イエスは、そのことに気づいて言われました。「おいおい、信仰薄い者たち、なぜパンがないからだと議論しあっているのか。覚えていないのか、ほら、五つのパンを五千人で分けたとき、幾籠パンくずがあったかね。パンは必要だ、しかし大丈夫、パンは神様が下さるよ、パンのことでそんなにあわてるな。わたしはパンことを言ったのではない。パリサイ人とサドカイ人のパン種に注意せよ、と言ったのだ。」主イエスは、このように多分笑いつつ言われて、パンの問題で心が一杯になっている弟子たちに、パンの問題よりもっと大切な問題があることを気付かせようとされたのでしょう。「人はパンのみにて生くるにあらず、神の口より出ずる一つ一つの言葉によりて生くるなり。」「何を食べようかと思い煩うな。命は食物にまさるではないか。」その命そのものの問題、み言葉によって命そのものを下さる神にあなたは繋がって生きているか、という問題が!そして、パリサイ人とサドカイ人に警戒するということは、まさにこの命の問題にかかわっているのだ、と。
なぜでしょうか。サドカイ人は、神殿で祭司の務めが与えられていましたが、富める特権階級であることに甘んじ、伝えられた儀式を形式的に行うだけで、生ける神と神の民に仕える本来の務めを忘れていました。パリサイ人は、律法を教え、自分でも律法を守ることに熱心ではありましたが、結局生ける神の御心に聴くのではなく、律法の字面を守って自分を実現し自分を正しい者と誇ろうと熱心であったのです。そして律法を完全に守ることはできない他の人々を裁き、蔑んでいました。彼らはそれだけ自分では神に熱心なつもりで、神の愛から離れ、おごり高ぶり、神に背を向けていたのです。だから、彼らは、主イエスにもっとも激しく敵対してきた人々でありました。なぜなら、主イエスはパリサイ人が、汚れた罪びとと呪い蔑む貧しい人々や病人たちに寄り添い、彼らのところに神の国が来ていると語り、彼らと共に生きられたからです。
このような、パリサイ人とサドカイ人が自分を膨らますのに用いているパン種を貰わないように、と主は弟子たちに諭されたのです。私たちも、その様なパン種を貰う誘惑に乗らないように目覚めていましょう。

2018年11月08日