説教 10月7日  「来るべき時の徴を読む」

聖書 マタイによる福音書16章1~4節

10月7日の礼拝説教の一部を紹介します。題は「来るべき時の徴を読む」で聖書個所は、マタイによる福音書16章1~4節でした。
「パリサイ人とサドカイ人が近寄って来てイエスを試み、天からの徴を見せてもらいたいと言った。」エルサレムの神殿でユダヤ人に対して統治権をもっていた律法学者と祭司という二つの勢力から、彼らの支配を揺るがしかねない主イエスに対する内偵捜査が行われ始めた、ということです。「徴」というけれど、何の徴のことかわかりません。主イエスは、ガリラヤの民衆の間で、神の国がもう来ているということの徴として、盲人が見えるように、歩けない人が歩けるようになる、などの奇跡を行っていましたので、神の国の「徴」ならいくらでも語ることができたでしょう。しかし主は、彼らにそのような徴を現わして見せるということをしませんでした。むしろこう答えられました。「あなたがたは空を見上げて、夕焼けだから明日は晴れだとか、朝焼けだから今日は荒れだ」とか言って天気の徴を見るのに、なぜ神を見上げて、神の前に自分が形作っている時代の状況が示すものをよく見てその中に、神が時代に対してなさっている裁きや裁きを越えてなさっている恵みの御業を見ようとしないのか。神に背を向けた「邪悪で不義な時代」は、そのように、神の側から「時の徴」を見ようとはしないで、自分の都合のいい徴ばかりを追い求めている、と、彼らが主イエスに徴を示せと言った姿勢そのものを問われました。今日のテレビ番組などで、わたしたちの足元に広がる貧富の格差の広がりや労働現場における働かせ過ぎなどの問題から目を背けて、日本経済の繁栄ぶりや日本が海外で好評価ぶりとかの徴を見せる話題が流行るのは、「邪悪で不義な時代」の徴なのではないかどうかと考えさせられます。主は、そんな時代に対しては、預言者ヨナの徴の外には、何の徴も与えられない、と言われました。つまり、旧約の預言者ヨナが、大きな魚の腹の中に三日間閉じ込められたように、わたしはわたし自身を罪びとたちの手に渡して、十字架につけられて死んで、三日目によみがえることになること、まさに、それが、邪悪で不義な時代に与える徴なのだ、と言われるのです。主の十字架の死は、人類の罪が主に向って荒れ狂い、その悲惨さを極限まで現わした出来事でありました。また同時にその人類が犯してきたすべての罪とその後も犯される罪の悲惨さを、御子によって神が引き受けられ、余すところなく裁かれ処理され、もはやなき者、過ぎ去ったものとされ、すべての人を、恵みによって義とし、神の恵みの世界を取り戻された出来事であり、これこそは救いの徴、神の国の徴そのものであったのです。主の十字架もとに立って時代の現実を見直すとき、時代がどんなに私たちの罪の悲惨な現実を現わしていても、まさにそのところに神の救いの御手が差し伸べられていると知らされます。地獄の闇の底に、天国の光がさしているのです。

2018年11月08日