説教 7月2日 使徒信条講解(2)高きかつ低きにいます神

イザヤ書43章1~11節

前回は、Credo in Deum(我神を信ず)という言葉の理解から始めました。この、神を信ずるの「信ずる」とは、わたしが思っていることが、確かだと信じることではなく、わたしが信じようと信じまいと、わたしにかかわってきている、真実な方として神に信頼するということだということでありました。その神とはわたしの思いに先立ってすでにわたしにかかわってきている生ける現実であります。私がたんに、そう信じている思いの内容であるなら、それは神ではありません。自分の思っているだけのものを自分の支えとするわけにはいきません。神は、わたしがわたしのすべてを、そこにゆだねていい信頼できる生ける方です。あなたはそういう神を神としているか、人間が造った観念や、理想や信念、お金や力や国家とか民族とかといった神でないものを神としているのか、私たちはいつも、真実の神から問われています。先ほど、イザヤ書四四章一節~一一節を読みました。イスラエルの民のユダ王国は、強大なバビロニアに滅ぼされ、神殿も破壊され、主だった人々は奴隷とされ、バビロンにとらわれの身になっていました。預言者イザヤが告げていた通り、小さい者身寄りのない者を顧みず、民を苦しめているイスラエルの罪に対する、神の裁きとして、それは起こったのです。しかし、バビロニアの捕囚となったイスラエル人の間から一人の預言者が、神から言葉を与えられ、神の赦しの語るのです。「慰めよ、我が民を慰めよ!」「私は、ヤコブを、全き滅びに渡した。」しかし、「わたしこそ、私自身のためにあなたの咎を消す者」(43:25) と。その神は「わが僕イスラエルよ、今聞け」と呼びかけ、「わたしは、あなたを造り、あなたを胎内でかたちづくり、あなたを助ける主」と言われ、私は、いつもあなたの存在の大本のところに生きて働いている、あなたを離れることはない、と自分の臨在をイスラエルの心に知らせ、裁きを受けてボロボロになったイスラエルを、エシュルン=真実な者として呼んでくださるのです。使徒信条の、「われ神を信ず」の「神」はこの「神」です。私たちの思い描いた神ではない、そういう意味で、高きにある神と呼ぶことができるでしょう。その神に対して、私たちは、逆らって背を向けている、しかしそういう私たちに神は身を向けて、ご自分を知らせて下さるのをけっしてやめられない、いや現に、私たちが自分に近いよりももっと近くに、私たちの低みにきてそうして下さる、いや、イエス・キリストの十字架の低みにまで来てくださったし、今も来てくださる、そして、私たちをその低さのままに高めてくださるそのような方なのです。だから、「高きにありかつ低きにいます神」なのです。

2017年09月06日