説教 9月30日  「使徒信条講解(13)‐われは聖霊を信ず」

聖書  ヨハネによる福音書14章1~9節

使徒信条は、われ神を信ず、わたしは、生きる時も死ぬときもどんなときにも神に信頼して、確かにされていますと告白し、その神を、造り主なる全能の父なる神、その独り子イエス・キリストなる神、そして聖霊なる神という三位一体の神として告白しています。今日からその「聖霊」の項の講解に入っていきます。聖霊とは、私たち一人ひとりの〈今ここ〉に働き、御自身を私たち心に示して下さる神のことです。
私たち人類は、一人ひとり父なる神に愛されて造られたものであり父のみ許にのみ、自分の永遠に確かな根っこ、確かな住まいをもっているのです。ところが人類は、その神に背を向けて自分を中心にし、「神」として欲望のままに生きるものになってしまったので、確かな住まい、居場所を失い、虚無の中に漂う根無し草のようになってしまいました。しかし、神の独り子なる主イエス・キリストは、ユダヤの人々に父が預言者を通して約束された通り、二千年前父の御許からきて、私たちに永遠の根っこ、居場所である父なる神の愛を現わして、私たち人類すべてを父なる神の子、御子なる御自身の兄弟として招いて下さいました。弟子たちは、主がまだ地上にあったときに先に選び召され、主イエスに従って、後の私たちのために証人となった人々であります。今主イエスは、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われ、この世の支配者たちの手による死を引き受け、地上を去って、父なる神のみもとに帰る時が来たことを知って、弟子たちと地上での最期の時を過ごそうとされます。しかし弟子たちは、目の前の主イエスが父なる神に根差して立っておられ、もともと父から来られ今や父のもとに帰る、それも「あなたがたが永遠に私と共に住む住まいを用意して、あなた方を迎えるために」父の御許に帰る、といわれるのが分らず混乱しています。なぜなら、彼らは主イエスの目に見える肉の偉大さに惹かれて主に従ってきたものの、主イエスの根っこであり、彼ら自身の根っこでもある父なる神に背を向けて、目に見える肉の姿にもたれかかっているからです。それゆえに、弟子たちがついていきたいと言っても、主は「あなた方は私のところに来ることができない」と言われるのです。事実弟子たちは、主イエスが逮捕されたとき主を捨ててしまうことによって、自分達が主についていけないものであることを思い知らされ、自分自身に絶望することになります。しかし、その弱い彼らに、死人の中から復活された主が出会って彼らに臨んで下さり、聖霊を受けよ、と語りかけ、御自身の息を吹きかけて下さることによって、彼らは、主イエスが、父の永遠の命に生きるものであり、その命を注がれて自分達もまた主にあって同じ命を生きる者とされたことを知るのです。聖霊はそのように、私たちの心に神の真理を示す神ご自身にほかなりません。

2018年11月08日