説教 9月23日 「諸国民への交わりの広がり」

聖書 マタイによる福音書15章29〜39節

主イエスは、異邦人の町ツロからガリラヤの海辺に来て群衆と過ごし、彼らが連れてきた手足や目や耳、言語障害や病に苦しむ人びとを癒されました。それは、このような苦しむ人々の低みに主イエスを通して神に逆らう人類の罪が取り除かれ恵みの満ちる神の恵みの世界がすでに始まりを告げられたということでありました。しかし、福音書はこの個所でもう一つ大切なことを告げています。それは、主イエスがツロ滞在後到着したガリラヤの海辺とは、今まで主イエスの活動舞台であったユダヤ人の住むガリラヤ湖西岸ではなく、ユダヤ人ではない異邦人の多く住むデカポリス地方北端のガリラヤ湖東岸であったとみられるからです。そこで集まっていたのはユダヤ人もいますが、多くが異邦人、色々な民族の貧しさや病気・障害に苦しむ人びとであったのです。だから、わざわざ彼らが、主イエスの驚くべき癒しの業を見て、イスラエルの神を賛美した、と福音書は強調するのです。さて、群衆たちは、この慰めに満ちた交わりを離れがたく三日も食事をすることもなく滞在し空腹になりました。主イエスは言われました。「群衆たちがかわいそうだ、彼らはずっと食べていない。このまま帰すと行き倒れになるかもしれない」と言われ、弟子たちに彼らがもっていた七つのパンとわずかな魚を出させ、分かち合って、四千人の群衆が満腹したと福音書は告げています。主イエスを通してあふれる神の恵みは、それほどまで、飢えた民衆に満ち満ちた、ということでありましょう。「かわいそうだ」との主の言葉の原語の意味は、「はらわたがちぎれそうだ」という意味の言葉です。主イエスは、色々な民族の人々飢えを見て、はらわたがちぎれそうな思いにかられました。わたしたちの社会はますます貧富の格差が広がり、この日本の社会の底辺でも明日の食べ物さえ困る人が増えていっています。それなのに、その人の努力が足らないからで、自己責任だと言って顧みない人もまた増えているそうです。わたしたちは、「天にいますわれらの父よ」呼びかけて、主の祈りを唱えます。神から「子よ」と呼びかけられ、御子なる主イエスの兄弟とされて、父よと、主イエスと共に祈るのです。その御子イエスは、あの餓えた群衆を見て、はらわたがちぎれそうだ、と言われた方です。主の祈りは、御存じのように、「み名」と「御国」について「御心が地にも」と祈った後、「われら」のための祈りが三つ続きますが、そのまっ先に来るのが、「われらの日用の糧」=今日の食べ物のための祈りです。その「われら」とはだれでしょうか。自分と自分の周りの人だけでしょうか。そうではありえません。世界のすべての今日の食べ物に困っている人が、食べられるようにと切に祈る祈りではないでしょうか。主は私たちにそのように祈りなさい、また行動しなさいと命じられます。

2018年11月08日