説教 9月16日 「大いなる希望のしるし」

聖書 マタイによる福音書15章29〜39節

主イエスは、異邦人フェニキア人の町ツロでの滞在の後、ガリラヤ湖畔に来られ、群衆たちと共に過ごされました。群衆たちは、たくさんの病気や障害を負った人々を一緒につれて集まってきて、主イエスは彼らを癒されました。私たちの間でも、家庭の中、親しい隣人の間に、障害や病気を患った方がおられ、色々な不便や苦しみの訴えを聞かせていただくことがあります。障害や病を負う本人も大変ですが、回りのお世話する人も大変です。今日の福音書の話でも、障害や病に苦しむ人びとを主イエスのところに連れてきて、主のところに「投げ出した」(ギリシャ語原文)と言いますから、それまで限界まで頑張って連れてきたという風にも読めます。主イエスは、その一人ひとりを丁寧に受け取り、癒されました。福音書記者は、「群衆は、口がきけなかった人が物を言い、手や足が不自由だった人が癒され、盲人が見えるようになったのを見て驚いた」と、明らかに、イザヤ書35章の5節6節の「その時、「見えない人の目は開かれ、・・・足の不自由な人は鹿のように飛び走り、口のきけない人の舌は喜び歌う」との神の約束のことばの成就としてこれを語っています。「その時」とは、どういう時のことでしょうか。それは、イザヤ書35章4節「あなた方の神は報復をもって臨み、神の報いをもって来られる」という言葉に表されています。それは、先立つ34章が語るように、人類の神に背く罪の結果、国と国が互いに滅ぼしあって、人類が誇っていた富や力の輝かしい外見がすべて死に絶え、世界が荒廃して、砂漠のようにされてしまう、さらにその只中で、神がその先になされようとしている救の御業のことを言っています。すなわち、その時、35章1節「荒野と渇いた地は楽しみ、砂漠は喜びて花咲き、さふらんのように、かつ喜び、かつ歌う」と。このように、神は人類世界の荒廃の中で、砂漠に花を咲かせるようにして、御自身の支配を打ち立てる、人類の罪は根こそぎ裁かれ取り除かれ、、神の国が来る、これが「神の報復」です。その時、見えない人の目は開かれ、・・・、足の不自由な人は鹿の様に飛び走り」というのです。700年前に告げられた来るべき恵みの時は、ガリラヤの湖畔の山の高みに登られた主イエスを通して、そこに集まった貧しい群衆の間になされた癒やしの業の中に、今「上から」臨んで現わされて、すでに始まった、これは、全世界、全人類に広っていく、来るべき神の国の希望の徴なのだ、と福音書はわたしたちに語るのです。私たちの人生には、障害や病気の苦しみも含め様々な悩みや苦しみがあります。ガリラヤの湖畔の山で、苦しみもがく人々に主イエスを通して神の恵みの御手の御業が臨んだ、そのの同じ神の恵みの御手は、どんなときにも、私たちに臨み、離れることはありません。

2018年11月08日