説教 9月2日 「口から出るものが人を汚れさせる」

聖書 マタイによる福音書15章10〜20節

 主イエスのところにわざわざエルサレムからパリサイ人、律法学者が派遣されてきて、弟子たちが食前に手を洗っていないと咎めてきました。イエス一行はエルサレムの中央権力から告発の対象としてマークされ始めたのです。食事の前に手を洗えとは、衛生のためではなく、手は神から閉ざされた世の異邦人の汚れた体が触れたものに触れているので、その汚れが体の中に入ってこないように、手を洗え、というので、いわば、異邦人を汚れたものとして忌み嫌い、自分を神の聖き民と高ぶり、その高ぶりを高める儀式であったのです。あらゆる差別の根にある歪んだ心理の儀式化がここにあります。
 それに対して主イエスは、彼らに応答せず、猛然と反撃しました。「あなたがたこそ、『父母を敬え』という神の戒めを、年老いた父や母に分け与えるべき食べ物を、これは神への捧げものと言えば、あげなくていいなどと言って、台無しにしているではないか。あなた方は、人間の戒めを教えとして教え、神の御心から遠く離れている」と。主イエスは、権力を笠に着て迫る者を恐れません。
そして言われました。「口に入るものは、人を汚すことはない。かえって口から出るものが人を汚すのである。」弟子のペテロは、そう語られる主の言葉を熟慮するいとまもなくこのエルサレムから来た人たちが怖かったようです。また主イエスの反撃に対するこの人々の怒りが怖かった。彼は言いました。「パリサイ人たちがみ言葉を聞いて躓いたのをご存知ですか?」主は答えられます。「私の父がお植えにならなかったものは、みな抜き去られるであろう。」だから怖がるな!神が植えられなかったものは、生えて繁栄しても、結局は抜き去られる。神によって立たないものは、究極のところ成り立たない。死せる者として裁かれる、と。だから私たちは神以外の何ものをも恐れることはありません。
 この一年明らかになった政権の腐敗の根っこに、忖度病という病気が見えてきました。権力を持つ人に自分から寄り添い、理不尽な力の支配する不正社会を音もなく確立してしまうものです。それは多くの日本人が本当の意味で神への怖れを知らない、また、弱く小さい隣人に神が無条件に与えた尊厳の前に慎むことを知らないから、また自分に神から与えられた尊厳を大切にしないから、目の前の強い人を恐れるのです。
 主イエスの言葉によって気を取り直したペテロが、あの譬えの意味を尋ねたら、主は言われました。「あなた方も知らないのか、外から口にくるものは、お腹を通して出て、便所に入る、だから人を汚さない。むしろ口から出るものが、その人の心から出て口に出るものなので、人を汚すのである。つまり、初めから敵意をもって人を調べることや殺意やそしりという今目の前でパリサイ人たちがしていることや盗みや姦淫などこそが人を汚しているのだ、と。

2018年09月10日