説教 8月26日 「使徒信条講解(12)-来たりて裁き給う」

ヨハネの黙示録 20章11節〜21章8節

使徒信条は第二項で、「われはその独り子われらの主イエス・キリストを信ず」と告白します。あの二千年前に神に背く神の民ユダヤ人の群れの間に現れたナザレのイエスこそは、キリスト、すなわち神が預言者によって「あなた方と人類を罪から救う方として送る」とユダヤ人に約束していた彼らの王であり、世界の王である方なのだ、ということです。そして、父なる神はその様な王を、御自身・御子として低く下して罪を犯す人の肉をとられる、そして、私たちの主となって下さるという仕方で与えて下さったのです。使徒信条はそのキリストなる御子が、「聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ」た、つまり貧困のどん底で小さき者として歩みはじめらたこと、ユダヤ社会の罪のゆえに苦しめられている人の苦しみを引き受け、やがてご自身が「ポンテオ・ピラト」の名で示されるローマ帝国支配下のユダヤの支配、ローマの支配のもとで苦しみ、「十字架につけられて死ぬ」ことを引き受けることによって、ご自身の民でありながら背くユダヤ人の罪と神を知らずになされる異邦人の罪に対する神の怒りの裁きを行い、その怒りをご自身が負われたこと、そしてそのまま神によって良しとされて「甦らされ」、天の父なる神の右に引き上げられ、この世と来る世のあらゆる権力、権威の上にあげられ、勝利されたこと。目には見えないけれど、この御子、主イエス・キリストが、この世のあらゆる権力・権威を足元において支配しておられることを使徒信条は、指し示しつつ語ります。このように、目には見えないけれどすでにアダム以来の人間の罪は、主の十字架において根っこから裁かれ、終りとされて、罪のゆえに死んでいた人が、主の甦りに与って新しい命に生きる神の国が始まっているのです。ただ、まだ目に目える形で、地上で罪が取り除かれているわけではない。世界のいたるところで権力を持つ者の横暴は絶えることなく、戦争もやむことなく、人びとの悲痛な叫び声が聞こえてくるような世界です。私たちも、この罪を犯す体をもって繰り返し神に背き、ただその度に神の赦しと憐れみを受けなければならない者です。しかし時が来る、その時、神は主イエス・キリストを再び世に送り、人類の罪を究極的に取り除く裁きを行われるのです。その日は突然、盗人のようにやって来ると主イエスは言われます。その時死んでいる者も、その時世にあって生きている者も、私たちが今この世に歩いているさまがすべて記されている書物に従って裁きが行われます。しかし、洗礼の水が示すように、キリストの十字架の死に与ってすでに罪びととしては死んで、主と共に甦りの命の中にあるならば、終わりの日に裁かれるとしても、その裁きは主の命の中に超えられてもう終わっています。その人の名は、命の書に記されていて、裁きの時は、神の恵みに満ち満ちた新しい天と地が与えられるとき、救いの時なのです。わたしたちは、その新しい天と地こそわたしたちの真のふるさとなのです。

2018年08月31日