説教 8月19日 「人間の戒めを教えとして教える過ち」

聖書 マタイによる福音書15章1〜9節

「時にパリサイ人と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとに来て言った。あなたの弟子たちはなぜ昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の時に手を洗っていません。」主イエスの福音は広がって行って、エルサレムの神殿当局にもマークされるようになったのです。食事の前に手を洗え、というのは、衛生問題ではなくて、神を知らず偶像をおがむ異邦人の汚れに触れた手で物を食べると、体の中に汚れが入ってくるからというものです。聖書にはなく、聖書の拡大解釈なのでしょう。諸国民を神に背を向ける罪の道から神と共に歩む救いへと導くために選ばれ遣わされたユダヤ人がなぜ異邦人の汚れを恐れなければならないのか、バカバカしい限りです。主イエスは応答せず、猛然とエルサレム神殿当局からの陰湿な内偵と威圧に反撃されました。「なぜあなた方も、自分達の言い伝えによって神の戒めを破っているのか。神は言われた。『父と母を敬え』また「父または母をののしる者は、必ず死に定められる」と。それだのにあなたがたは「だれでも父または母に向って、あなたにさしあげるはずのこのものは供え物です、と言えば、父または母を敬わなくてもよい」と言っている。こうしてあなたがたは自分の言い伝えによって、神の言葉を無にしている」と。
「父と母を敬え」という戒めは、イスラエルの群れがエジプトの奴隷の状態から神の御手によって解き放たれて、父祖たちに約束された安住の地カナンに導かれるにあたって、彼らが神の民として生きる道の基本を神から示された「十戒」の中にある規定です。これは「あなたは地上の諸族の祝福の基となる」という神から与えられた約束と使命は、親から子へと受け継がれなければならないので、「父・母を敬え」という規定は、「神を神として敬う」ことに直結する隣人愛の規定でした。普通その規定は、幼児・児童や若者である子供に父・母を敬え、と命じるもので、親は力や識見でも大きい存在なので、当然とも見られます。しかし主イエスは、この戒めについて、年老い弱くなった父・母に対して口先でなく行動でもって大切にするかどうかで問題にするのです。当時の律法学者の間で言い交わされていたものの中に、父母に分ち与える食べ物であっても、これは神への供え物だといえばあげなくてもよい、父母を敬うよりも神を敬うことのほうが順序が上だからというものがあったのでしょう。隣人への愛と神への愛を天秤にかけ、結局神への愛が第一だと言って、年老いた父母から食べ物をとりあげることを容認する、こうして神の御心からも遠く離れてしまうという、彼らの「神」信仰の観念性とそのもたらす醜悪なものを明かにされたのです。

2018年08月31日