説教 8月5日 平和聖日 「牧者と羊と羊の間を裁く主」

聖書 エゼキエル書34章1〜24節

八月第一主日は平和聖日として礼拝をささげます。平和聖日は、一九六七年イースターに、当時の鈴木正久教団議長名で出された戦争責任告白に基づき、第ニ次世界大戦の時に、「教団の名において、あの戦争を是認し、支持した」過ちを繰り返さないために制定されました。現在日本の国は、みずから憲法によって世界に誓った戦争放棄の約束を投げ捨て、世界中で戦争を展開するアメリカの意向に従って武装自衛隊を外国の戦地に送るに至っています。互に隣人である人間同士が殺し合い、民族と民族が相手の絶滅のために死力を尽くして争う、そのために、人類全滅につながる核兵器すら使いかねない中で、その人類の一人ひとりである私たちに神が語ってくださるみ言葉に耳を傾けようとしています。
今日は、エゼキエル書の三四章の言葉が与えられました。紀元前六世紀初め、強大国バビロニアの侵略に苦しめられ、滅ぼされたユダ王国で祭司であったエゼキエルという人に神が臨み、この言葉を、「イスラエルの牧者である」王や祭司たちに、主なる神がこういわれると告げよ、と言われるのです。「災いなるかな、自分自身を養うイスラエルの牧者、牧者は群れを養うべきものではないか。ところがあなたがたは脂肪食べ、毛織物をまとい、肥えた者を屠るが、群れを養わない。あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者を癒さず、傷ついた者をつつまず、失せた者を尋ねず、彼らを手荒く厳しく治めている」と。国の権力や権威ある立場の人々は、羊飼いが主人の大切な羊の世話をするように、神の民の群れに仕えて世話をする使命を与えられています。それなのに、「あなたがたは、民の群れから命の油を搾り取り、彼らを犠牲にして自分の安全を図り、民衆が病み、傷つき、家を失い、さまよっているのに、癒さず、包帯で包まず、失せた者を尋ねず、ひたすら彼らを支配下に置こうと厳しく治めるばかりだ」と。私たちの国ではどうでしょうか。トップにいる首相や大臣たち、国会議員、裁判官たちは、神の大切な民衆一人ひとりを大切にしてその生活と人権を守り、平和に暮らせるように彼らに仕えるべく、重大な使命を与えられています。しかし彼らの目を覆うような無自覚・無責任をしばしば見ます。神は、私たち一人ひとり、民の一人ひとりを、「わが羊」と呼ばれます。「わが羊」が悪い牧者にかすめ取られていることをそのままにはしておかない、と。神が私たちに、すべての人々をわが民として尊厳を与えておられる、このことをしかと心にとめ、神に信頼し、偽の牧者に自分をも隣人をもかすめ取らせないこと、自分を大切にし隣人を無条件に尊びその声に聴くこと、これが平和であり、平和への道です。

2018年08月31日