説教 7月29日 「使徒信条講解(11)―天の父の右に坐し給えり」

聖書個所 エペソ人への手紙1章22〜33節

使徒信条は、主イエス・キリストの十字架の死と死人の中から甦りを語って、続いて主が天に昇り、全能の父なる神の右に坐し給えりと語ります。マルコ、ルカ福音書、使徒言行録には直接に、そしてマタイには、暗示的に主イエスが、復活されて、天に昇られたことを伝えています。天とは、わたしたちがその中にいる目に見えるものたちの世界を越えた万物の創造主なる神がいます場所のことです。しかし同時に地のすべてのものを越えたその場所はまた、この地からかけ離れたところではなく、宇宙全体を含む地の領域をさらに大きく包む広大に開かれた場所であります。

 そして、私たちもみな御子イエスにつらなる神の子たちであり、天の神によって存在を与えられたものでありますから、実は、天に由来して地上にきているのです。ただ、私たちは自己中心の罪のゆえに、その自分達の本来出たところを見失い迷い出てしまっているのです。主イエスは、死んでよみがえりその天の父のみもとに帰られることによって、迷い出た私たちが帰るべき場所をしめされたのです。

何よりも、マタイ福音書で、主イエスご自身が、父なる神のみもとにあげられるに際し、「わたしは天においても地においてもあらゆる権威を授けられた」と言っておられるように、天と地の他のどんな権威も逆らうことの出来ない神の権威が主イエスに託されて満ち満ちている場所にほかなりません。その主イエスとは、御自身を低くして、人となり、十字架に死んで人類すべての罪とその結果としての死と悲惨を担い引き受け、そして甦られた方にほかなりません。神はそのイエス・キリストを天に挙げられ、その方に御自身のすべての権威と支配を託されたのであります。これが主イエス・キリストの昇天です。

だから、主の昇天は、主イエスが、地上の低みにいる私たちから遠くかけ離れたところに行かれたということではありません。主イエスの昇天によってむしろ、この地上のもっとも低いところ、暗いところ、わたしたちが罪びとであるこの場所、悩み苦しんでいるこの場所が、すなわち天に直結した場所として示されたのです。私たちがいるこの地上は主イエスがその十字架と復活において現わされた神の力が満ち満ちている場所、神が私たちの罪を完全に裁いて終わりとし、わたしたちを新しくして神の子として迎えて下さるその支配の満ち満ちるべき天の場所になったのです。そこでは、この世のあらゆる権威も権力も権勢もその権威の前には、何の力も持ちません。すべてのものが主イエス・キリストにおける神の愛の権威のもとに服させられているのであります。その場所こそが、私たちが本来帰るべき場所なのです。

2018年08月06日