説教 7月9日 終わりの救いの日がすでに今

マタイによる福音書9章27~34節

色々な苦しみを負った人々が、主イエスに助けを求めてきて、主は癒されました。ある有力な者は、娘を死から甦らせて頂き、人びとから避けられ、交わりを閉ざされていた生理出血の女性は、主の衣の房に恐る恐る触れたのがきっかけで、主から「娘よ」と呼びかけられて、神の輝きの中に移し入れられました。今日も、二人の盲人が、家に帰ろうとするイエスの後を追い、「ダビデの子、イエスよ、私たちを憐れんでください」と叫びながらついてきて、目に触ってもらい、見えるようにされ、彼らが出ていくと今度は、人びとが、悪霊に憑かれて口がきけなくなった人を主のところに連れてきて、それだけで、もうその人は物を言っていた、というのです。みんな、こんなことは今までイスラエルに一度もなかったと驚いた、ということです。私たち人類は一人ひとり、神によって造られ、尊い存在を与えられたものです。しかも、神を神として仰ぎ、互いに神から造られた通り大切に受け止めあい、支えあうようにと造られたものです。ところが人間は、神にも自分にも隣人にも心を閉ざし、ありもしない空虚な自分を中心に置き、その自分を広げようとする者になりました。その結果、力に奢る者が、弱い者を踏みつけにし、富める者が貧しい者を食い物にするという悲惨な世界になってしまいました。しかし神は、神の民イスラエルを選び召し、憐れみをもって導くことによって、全世界にご自身の愛を示し、人が神に対し、互いに対して当然あるべきあり方(律法)を教えられました。またイスラエルの預言者たちを通して、終わりの日には、ユダヤ人=イスラエルの王でかつ世界の王であるメシアを送って、イスラエルと人類の罪を根こそぎ裁いて終わりとして下さるということを、苦難の極みにおかれたイスラエルに示されました。メシアは、ダビデの位を継ぐ者として来るということでした。その時に起こることをこう描写しました。「その時、砂漠は喜び花が咲き、・・・見えない人の目は開かれ、聞こええない人の耳を聞こえるようになる」(イザヤ三五章)と。主イエスは、そのダビデの子・メシアとして、終わりの日に来られたのです。世界・人類が新しくされるために。神をも人をも見ても見ず、お喋りをしながら真実を隣人に語れない囚われの私たちが、神と人ときちんと見える者となり、心を開いて真実を語る者となるためにです。そのことために主は囚われの身となられ、十字架につけられて死なれ、死人の中から甦らされたのです。

2017年09月06日