説教 7月22日 「しっかりするのだ、わたしだ」

聖書 マタイによる福音書14章22〜33節

教会の歩みでも人生でも、困難や危機にまみえて、先が見えない苦しい時があります。今その真っただ中にいる人もいるかもしれません。それは嵐や逆風にもたとえられます。
今日わたしたちは、弟子たちが船で湖を渡ろうとして嵐にあい、夜中中漕ぎ悩んでいたとき、主イエスが来てくださった、そして、しっかりするのだ、わたしだ、恐れるなと言って、舟に乗りこまれた、すると嵐が静まった、というお話を聞きました。わたしたちの人生が嵐にまみえて、挫折し先行きがみえない時も、主イエスは来て、しっかりするのだ、わたしだ、と語りかけて下さる、その主を心に迎えるとき、わたしたちはどのようなときにも、平和を与えられて前に向って前進することができる、ということであります。
しかし、弟子たちは主が嵐の只中に来てくださったとき、はじめは、主を幽霊だと恐れました。「しっかりするのだ、わたしだ」とは主のそれに対するよびかけなのです。なぜ主イエスを幽霊だと恐れてしまったのでしょうか。まさか、このような真っ暗闇の嵐の中に、彼らを飲み込もうと荒れ狂う大波の中に、父なる神と直結する神の子主イエスが、臨んでくださることは弟子たちには思い及ぶことがなかったのです。怖ろしい嵐や波と一緒になって突然姿を現してくるもの、この世の者ならぬ異様なものは、幽霊だとしか思えなかったのでしょう。弟子たちの心に描くイエスとは、心地よく頼りになりそうな姿で差し招いてくれる像だったのでしょう。しかし、主イエスは、そのような弟子たちが描く像を越えた姿で、怖ろしい嵐や荒れ狂う大波をともないつつ弟子たちに現れました。ある仏教の概説書にこう書いてありました。キリスト教の神は十字架につけられて苦しみに顔をゆがませた異様な姿であるから、人に安らぎを与えない。しかし仏教の仏様は、穏やかな笑みをたたえて人に安らぎを与えてくれる、と。しかし、そのような仏様の笑みが、ただ何かを得ることができた幸運の笑みではなく、人の存在そのものから無条件にあふれ出る純粋な笑みであり、人の存在には、どんなときにも喜んでいい根拠がどこかあるのだ、ということを指し示す笑みであるならば、それは御子イエス・キリストを通して現わされた父なる神の愛による外はありえません。それはまさに全能の父なる神が、御子としてご自身を低くして人の肉を取りわたしたち人類の神に背く罪と罪からくる苦しみ悩みを、死を、引き受けて十字架について下さり甦ってくださったことによるのです。その御子イエスが、私たちのあらゆる苦難の中に来てくださり、しっかりせよ、わたしだ、恐れるな、わたしが共にいると言って下さるのです。

2018年07月31日