説教 7月1日 「近すぎる人々のつまづき」

聖書 マタイによる福音書13章53〜55節

7月1日に行った礼拝の説教の一部を紹介します。聖書個所はマタイによる福音書13章53〜57節で、題は「近すぎる人々の躓き」です。
主イエスは、「ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気をお癒しになった」(マタイ四章)ということです。今日の箇所は、故郷のナザレでも、ある安息日に、招かれて、会堂で教え、さらには病人を癒す働きもなさいました。故郷の人々は、主イエスの子供のころのことも母マリヤも育てのヨセフが大工であること、主イエスの肉親の兄弟姉妹のことも知り抜いています。そんなイエスちゃんが偉くなって帰ってきて、素晴らしい話をし、力ある癒しをするので、みんな感動し、賛嘆の声を上げた、というのです。主イエスは歓迎されたのです。
ところが福音書記者は言います。「このようにして人々はイエスに躓いた」と。躓いたとは、反発したとか腹を立てたということです。強烈な言葉です。主イエスも、「預言者は、自分の郷里以外では敬われないことはない」と、ちょっぴりユーモアと諧謔を含めて、感想を述べられました。郷里の外では、迫害や無視もあるかと思われるのですが、それの方がまだましなくらい、ということでしょうか。どういうことなのでしょうか。しかし福音書は、ここで起こったことの隠れた問題を透徹した目でみつめているのではないでしょうか。主イエスは、神の民ユダヤの人々の集まる会堂で、聖書(旧約聖書の律法や預言者のことば)に基づき、神の国、神の恵みの国の話をし、その神の国は、今ここに集まっているあなたがたのところで成就している、だから、神の恵みに背を向けているあなた方の日常を悔い改めて、あなた方に迫っている神の国を受け取って生きることを始めなさい、ということを宣べ伝えたものだと思います。聞く人は、主イエスが指し示すその事柄そのもの、すべての人々に、そして自分にも及んでいる神の恵みの現実そのものに心の目を向けるように招かれ促されていたはずでありました。故郷の人々は、自分に悔い改めよと心の底に迫っている神の言葉を、心の底から受け入れて、新しい人生を始めるべきでありました。それなのに、その言葉に背を向けて、ひたすらイエスの話しっぷりのよさとか、目の前のイエスのすごさとか偉大さをほめ讃えていたのでした。つまりは、イエスを自分の価値観や願望や欲望を満たす偶像(アイドル)に仕立て上げてこれを拝んでいたのです。彼らは主イエスを敬いなんかしていなかったのです。なんという倒錯でしょうか。山上の説教で主ご自身が言われました。「私に向って、主よ、主よという者が、天の国に入るのではない。ただ天にいます父のみ心を行う者だけが入るのである」と。主イエスにを通して私たちに切に語りかける父の御声にひたすら耳を傾け,従って行きましょう。

2018年07月31日