説教 6月24日 「使徒信条講解(10)―三日目によみがえり」

聖書 コリント人への第1の手紙15章33〜46節

使徒信条は、十字架につけられ死んで葬られ、陰府に下った主イエスが、「三日目に死人の中から甦られた」と語ります。三日目にとは、主イエスは完全に死んでいたということを意味します。人が死んで三日目には、体は腐り始めます。その人はこの地上から消えて虚無の闇の中になくなり始めるのです。使徒信条はすでに主が「死んで葬られて陰府に下り」という言葉で、このことを強烈に言い表しています。神の御子が、陰府にまで降られたのです。地上の存在としてはゼロになられたのです。それは何のためであったでしょう。それは私たち人類のためでした。私たちも死んでゼロになり、陰府に下る者です。肉体が滅びて魂が滅びずに残るなどということはありません。業績や地位や名声が何でありうるでしょうか。死と滅びと陰府が、わたしたち神に背を向けた私たちの行く先です。それが私たちに罪が支払う「報酬」(ローマ書六章)です。しかし、神の御子がその私たち罪びとが自らに罪に仕えて得るその死と滅びと陰府をまるごと私たちから取り去りご自分のものとなさいました。そして、それらすべてを担い取り、そして、甦られたのです。そのよみがえりの命に、わたしたちが新しく生きるためです。「一人の人アダムによってすべての人が死んだように、一人の人キリストによってすべての人が生かされるのです。」もはや、神に逆らい死んで朽ちてしまう古いアダムなる肉の人ではなく、神の恵みに満ち満ちた霊の人として、すべての人が生かされるのです。主イエス・キリストはその前触れとして、パウロの美しい譬の言葉で言えば、「眠っている者たちの初穂として」甦られたのです。目に見える地上では、神に逆らって世を支配しようとするさまざまな権力や権威が猛威を振るっていますが、そのような世は過ぎ去り、新しい時が来ているのです。目には見えない天にいてはすべてのものはキリストの足のもとにおかれてしまっています。やがて終わりが来て、キリストはすべての敵に打ち勝ち、支配を父なる神にお返しする、そして、神がすべてにおいてすべてとなるのです。主イエス・キリストの死人の中からの甦りは、そのことをあらかじめ私たちに告げるものです。私たちは愚かにも、自分の罪のままに朽ちる命がすべてだと思っているのです。しかし、麦の種であれ、野菜の種であれ、種が朽ちなければ、麦も野菜も生えず収穫できないのと同じように、わたしたちのこの肉の命も腐敗して消えるのです。それはしかし、消えるためではなくて、終わりの日に、この朽ちる者が朽ちない命を着て甦るためです。神に直結して神と共に生きる新しい命、また互いにに支えあい与えあう命によみがえるためです。その終わりの時がいますでにわたしたちにきており、わたしたちをまきこんでいるのですから、わたしたちはそのように生きていきたいと思います。

2018年07月31日