説教 6月10日 「終りの救いの日になされる審き」

聖書 マタイによる福音書13章36〜43節

 主イエスは、天の国は、よい種をまいておいた人のようなものだ、と言われ、その人は、麦の間に毒麦らしいものが生えてきたからと言って、むやみに抜いたりはしない。よい麦まで間違って抜くかもしれないから。終わりの時が来れば、毒麦は毒麦として明かになるから、その時抜いて焼き捨てるものだ、と群衆に語られたと福音書記者は書いています。これは、神が御自身の恵みの支配を告げさせるために世に遣わした神の教会の群れの間で、自分を正しいとする多数派が厄介とみられる人を排除しようとすることが、いかによい種をまいた正しい神の思いに反するものであるか、赦しと忍耐こそが、よい種をまいたよき農夫、群れを育てるよき神のみ心なのだ、ということを語るものでありましょう。
 ところが、あとの弟子たちとだけになったきに主が弟子たちに、このたとえ話の説明をした内容は、このような趣旨のものとは違って、強調点は、終りの裁きの方に話が一直線に収斂しています。この違いはどこからくるのでしょうか。それは多分に、主イエスが群衆に話したとされる方は、福音書記者が、主イエスが語ったものとして、伝承されていたものに近く、弟子たちに説明したという方は、福音書記者の教会が、神の恵みの支配に背を向け敵対する世の(つまりユダヤ人の律法による支配や異邦人ローマ帝国の)権力や富により頼む支配勢力との向き合いの中で、それも、そのような勢力が、教会の中にまで影響力を及ぼしてくることとの向き合いの中で、あらためて、主イエスのみ言葉を聞いたことが反映していると考えられます。彼らは、教会の中にまで入り込んでくる悪の現実の前に、つい、自分の肉なる思いのままにあれは悪だ、毒麦だ、あれを排除せよと性急な思いになった途端すでにその自分が毒麦になってしまうという危うさをも覚えたのではないでしょうか。そうだ、裁きをなさるのは、自分達ではない、終わりの日に主が裁かれる、だからこそ、私たち神の群れは、たがいに主がなさるその裁きの前に、謹んでいよう、終りの裁きの時はまだである今この時、神と人の子なる神の子主イエスは、なお罪びとを赦し憐れみ忍耐しておられる、その憐れみと忍耐こそ神の民の群れの間でお互い、畏れをもって覚え続けることが大切なのではないか、ということを主イエスのたとえ話から聞いたのではないでしょうか。わたしにはそう読めます。

2018年06月22日