説教 5月27日 「使徒信条講解(9)―十字架につけられ」

聖書 マルコによる福音書15章19~39節

 主イエスは、ユダヤ人と異邦人(ローマ帝国)の法廷で死刑の宣告を受けて十字架につけられて殺されました。しかしそのすべての過程で、起こったことは、神が、御子キリストを彼らユダヤ人と世界の諸国民の真ん中に立てて、ユダヤ人と私たち世界の諸国民の罪に対して、究極の怒りの裁きを貫かれたのです。なぜなら、神の裁きとは、神に背く者が陥って行く他者への無思慮・無感覚のままに愚かで空しいことをするままに神によって放任されて、醜悪な姿を現すことの中にあるからです。ユダヤ人の法廷での大祭司のふるまいのその聖なる地位を汚すような無様さ醜悪さ、裁きの全権を委任されているはずの総督ピラトの正しい裁きができない無力さは、いずれも彼らへの神の裁きであります。それは人類の罪に対する究極の裁きとして起こったのです。まだ一二時なのに全地が暗くなり、三時まで闇に覆われた」というのは、このことを現わしています。

 しかも神は御自身の怒りの裁きを、人類の上にではなく、御子の上に下され、御子を十字架につけて、死なせるという仕方でその裁きをまっとうされ、御子の死をもって人類からその罪をもう処理済み、終った者としてしまわれたのです。主イエスは、こうして、使徒信条が告白するように「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだる」という本来神に背く私たち罪びとがたどる宿命を私たちの代わりにおわされることになりました。このことによって、これらすべてのわたしたち罪びとが負わされる宿命、人類のあらゆる悲惨、痛み、苦しみ、屈辱、孤独、脱力、無力が、そして、地上の生の終わりとしての死が、全能の父なる神の御手のうちに引き受けられ打ち勝たれてしまいました。主イエスは、これらのわたしたちの宿命をおいつつ、「わが神、わが神、何ゆえ、わたしをお見捨てになったのですかと、祈られました。このときにように、御子が父なる神に強く迫り、父なる神が御子と一つとなっていたときはなかったといえるでしょう。父は御子の祈りを聞き、死人の中から甦らせてくださいました。それは私たちもまた、御子と共に命に与るためであります。

 わたしたちは、信仰によって、御子の側に身を寄せることによって御子の復活の命に与って。あの痛み、あの苦しみ、あの孤独、無力、死にかえて、神からくる命に与る道に立たせていただくのです。その時、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた、とあります。神殿の幕は、神殿の最奥にある神が臨在する聖なる場所と、罪に汚れた他の場所を隔てる厚いカーテンでした。今やその隔てはなくなりました。罪に汚れているとされていた世界のあらゆる場所が、たとえ人がどんなに罪深く、そこにどんな悲惨があっても、そこは神が臨み栄光を現わす場所に変えられたのです。 

2018年06月07日