説教 5月13日  「忍耐して終わりまで待つ」

聖書 マタイによる福音書13章24節~30節

マタイによる福音書一三章には、種まきのたとえ話がありまた主イエス自身が譬え話を説明したということも書かれています。主イエスは、農夫がせっかく種をまいても、鳥が来て食べてしまったり、いばらの地に落ちて育たないなどの困難があるけれど結局、は豊かな実りを与えられる。神の国も、挫折するようで結局豊かな収穫が与えられる。このように神の国は必ず成就するのだから、挫折しても望みを失ってはならないという趣旨で語ったのでしょう。しかし、教会はこのたとえ話の中に、教会がみ言葉を宣べ伝える(種まく)中でまた教会形成の中で、直面している様々な困難について主イエスがつぶさに知り給い、困難に直面する者が、落胆しないでみ言葉を宣べ伝え続けるように励ました内容を受け取りました。
さて今日の箇所もまた主イエスの種まきの話、別な種まきの話が記されています。今回も福音書記者は、別の面から神の民の群れたる教会を脅かす危機や困難について受け止め、それにもかかわらず約束されている終わりの日の約束と励ましを主の言葉から受け止めています。主題も明確に「天の国は、よい種を畑にまいておいた人のようだ」という始まりで明らかです。天の国とは、神の恵の満ち満ちる支配のことです。だからこのたとえ話も、世界に悪がはびころうと、悪い者がこの世の権力や富に乗っかって栄えているように見え、神の国は小さく弱弱しく見えても、神の国は必ず前進し勝利することを語る文脈の中にあると読むべきでしょう。その話はこうです。ちょうど農夫が種をまくように、神は主イエスにあって、私たちを含め、人々にみ言葉を与えてこれを地に撒くのです。すなわち神の民の群れです。それはよい種です。御子主イエスの十字架の死によって贖い取られ義とされ、神の子とされていることを信仰によって受けいれ、日々悔い改めて生きる群れです。神はその種を育て,芽を出させ、成長させ,、実ををならせます。その群れは決して、よい人たちの群れではない、罪びとの群れ、神によって義とされた罪びとなのです。だから時には、ある人々、または大多数にとって、ある人が厄介な人となり、人々がどうしてこんな人がいるのだろう、と思い、神にもどうしてこんな人がいるのですか、いなければいいのに、と文句を言います。しかし主イエスは言われるのです。それはちょうど、自分の畑によい種をまいた畑の主人が毒麦が生えたというので、僕たちが、どうしてよい麦を植えたはずなのに毒麦を生えるのですか、毒麦を集めましょうか、と文句をいうようなものだ、と。畑の主人は、どういうだろう。「いやまて、どれが毒麦かわかるのか、というだろう。畑の主人なら、時が来たら麦と毒麦の違いが出てくる収穫の時が来て、毒麦は焼き捨てたうえで、麦は収穫して倉にいれる。だから終わりの裁きの時まで忍耐して待て、と。実際、毒麦と麦は育つまでは違いがわからないが収穫のときになるとはっきり見えてくるそうです。

2018年06月01日