説教 5月6日 説教「種まきの譬えの教会による解釈」

聖書 マタイによる福音書13章18節~23節

新約聖書の初めの四つの福音書は、主イエスの十字架の死と復活に至る歴史、出来事を伝えている本です。それは、備忘録とかニュースというものではありません。主イエスに触れた人々が語り伝え、伝えられ人がまた伝えた伝承(伝承の場は主の教会の群れでした)に基づいて、福音書記者に代表される教会がそれぞれの仕方で、伝えられた伝承を編集してまとめたものなのです。こうして、主イエスが世に来られ、死んで復活されたことが、神がどこまでも恵み深い方として人類にご自身を現わしてくださった出来事であることを彼らは福音(よき報せ)として証しし宣べ伝えたのです。だから、主イエスの言葉として福音書に記されているものには、伝える人の感動や思いが込められており、歴史上の人としてのイエス自身が語った言葉と教会の宣べ伝えが、混然一体になっています。今日の箇所は、主イエスが群衆に語った譬え話の意味を、弟子たちに説明したということです。しかしこの説明は、一三章三節以下の主イエスの譬え話と、ずいぶん状況が違うような印象があります。それはこういうものでした。「種まく農夫が種まきに出ていった。道ばたに落ちた種は、鳥が来て食べてしまった。他の種は、石地に落ちた。するとすぐに芽を出したが、日が昇ると焼けて根がないので枯れてしまった。他の種は棘の地に落ちた。すると棘が伸びて塞いでしまった。他の種はよい地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六〇倍、あるものは三〇倍になった」というもの。非常にさわやかで、簡潔で自由、詩的でさえあり、戸外の風を感じさせるもので、主イエスが浜辺に向って舟から語ったものそのものという感じがします。しかし、主イエスが弟子たちに語ったというその解説は、どうも教会なり家の一室での聖書研究会か何かで語られている印象があります。話の背景にあるものは、神の国を人々に伝え、教会に招き、共に教会に集い、迫害をうけながらも教会生活を始める。伝えるのも大変ですが、洗礼を受けて教会に来始めた人が教会に定着するまでも大変です。ある者は、み言葉がその人の心に語られても「聞いても聞かず、心で悟らない」。悪魔が来てみ言葉を奪ってしまったような例だ。第二の石地に落ちた種とは、一度はみ言葉を受け入れるが、深くないので、迫害が起こるとすぐにみ言葉を捨て、教会を去って行ってしまう。いばらの中に落ちた種とは、世の心づかいや富の惑わしが、み言葉を聞いて行うことを妨げる、つまり、色々なこの世の忙しさに振り回されたり、と事業がうまくいってそれに夢中になっているうちに、み言葉から離れ、教会からも去ってしまう、という例です。こんなふうに伝道や教会形成は、さまざまなことで挫折するが、よい地に落ちる種もあって、やがては豊かに実る、だから落胆しないで、という励ましをあのイエスの譬え話から教会が受け取ったのではないでしょうか。ここでよい地とは何か?私たちの思いや信仰にさえも先立って、主イエス・キリストにあって私たちにすでに、絶えず新しく注がれている神の愛のことです。「信仰」というものも含めて、自分の思いにより頼むのではなく、思いに先立って既に注がれているこの恵みに共に立つ群れは、おのれの力によらず、恵みによって前進し、豊かに実らせて頂くのです。

2018年06月01日