説教 4月29日 「使徒信条講解ーポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」

聖書 マルコによる福音書15章1節~20節

神はその神の独り子、神から出た神ご自身である方を、人の肉をまとわせ、この地上に送って下さいました。処女(おとめ)マリヤを母としてうまれられたナザレのイエス、イエス・キリストです。そして、このことによって神は、私はあなたと共にいる、わたしはあなたのものと言われ、インマヌエルの神としてご自身を示されました。しかし、主を迎えた私たちがそのひとりであるこの世でイエス・キリストの生涯はどういうものであったでしょうか。それは「苦しみを受け」という一言に示されるものでした。わたしたちは、一人として神が私たちと結んで下さるその絆の外には一瞬も存在することもできません。それなのに、私たちはその神に背を向けて神なき自分であろうとするのです。富や力をもって神のようになったとおごりたかぶり、他者を抑圧し苦しめるたりするのです。主は、その犠牲となって苦しめられている人々の苦しみを共に苦しみ、彼らの癒しとなられました。しかしその主の働きに対して、世の権力をもつ人たちは、敵意を抱き、主を殺そうと相談し始めます。今や神の御子なる主ご自身が彼らから直接苦しみを受けることになるのです。主はその苦しみの場所へと自ら突き進んで行かれるのです。そしてついに逮捕され、彼らの裁判の被告となられました。しかし、このようにして、何が起こるのでしょうか。神ご自身が、御子を彼らのただ中に遣わし、その真ん中にたってご自身の民と人類に対する裁きをなさったのです。こうして彼らは主を裁いているつもりで、自分達の律法違反と罪を明るみに出され、神の怒りの裁きをうけるということが起こったのです。しかし神はその怒りの裁きを、彼らに帰せず、御子に下されました。御子自身が彼らの手によって苦しみをうけ、さらには、ローマ総督ピラトに引き渡され、十字架につけられることによって、神の人類への裁きは遂行されたのでした。主がピラトの前に立ち、こうして、ピラトもまた主の前に立たされ、こうしてピラトとその部下や兵士たちを通して、世界の諸国民が主の前に立たされたのです。ピラトの前に引き出された主イエスにピラトが向き合う場面を読みました。ピラトは、イエスの無罪を確信して、イエスを許そうとしますが、無駄でした。祭司たちの扇動に乗ってユダヤ人群衆は、十字架につけよ、と激しく叫ぶのです。ピラトは、群衆たちを満足させるために別の死刑囚バラバを許してイエスを十字架につけるために渡したのでした。こうしてピラトは、みずから、惨めにも神から託された統治の使命を放棄して自分を台無しにしてしまったのです。また諸国民から集められていたピラトの兵士たちも、イエスを汚く愚弄することによって、自分達の品位と人間性を辱め、そこに神の怒りの裁きが貫かれました。ここに世界審判が遂行されました。主イエスはこれらの神の怒りをご自身に担われて、十字架の死を引き受けられ、甦って、すべての人が神の赦しと神の子としての新しい命を受ける道を開かれたのです。

 

2018年05月11日