説教 4月22日 説教 譬えで話すことの意味

聖書 マタイによる福音書10章10~17節

主イエスは、海辺の大群集にも神の国を伝えるために漕ぎ出された舟の上からもたとえ話をされました。たとえば農夫たちがまいた種たちはいろいろな妨げで挫折して実らないかのようだが、よい地に落ちた種が必ずあって、百倍にさえ実ることがある。神の国にもそういうものだ、と。福音書にご自身を証ししておられる主イエスと共に歩み、何よりも主の苦難と死、死人の中からの復活を知らされ、主の教会に連なる私たちは、それを神の国=神の恵みの支配のことを語る私たちを励ます言葉として受け取り、そのたとえ話から、神の国への信仰を豊かにし、慰め、励ましを与えられます。しかし、当時主のたとえ話は、聞いていた多くの人々には、謎めいていて、何のことを言っているのか分らなかったようです。世の大多数の人々は、神の国が近づいたという主のメッセージを聞いても、自分がすべての中心であるかのような考え方生き方でいて、それでいいと思っていますので、そのような目に見えない神の真理を直接の言葉で心に訴えようとしても彼らにの心に入ってこないのです。、だから、主は、あえて神の国のことをたびたび譬えで話しました。しかし譬えの表面的に言われている目に見えることは受け取っても、その譬えが伝えようとする目に見えないその奥の真理は伝わりません。そして譬えが結局何のことを言っているのかが分らないということになってしまいます。だから弟子たちも、主イエスに、なぜそんな分かりずらい譬えで彼らには話すのか、と尋ねました。すると主は答えられました。「あなたがたは天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。おおよそ持っている人は、与えられていよいよ豊かになるが、持っていない人は、もっているものまで取り上げられるであろう。だから、彼らには、譬えで語るのである。それは彼らが見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。」譬えで語っても、通じない、直接的な言葉で語っても通じない、主イエスは、神に対して身を閉ざし自己中心であろうとする人の心の頑なさを、分っていました。主は言われました。預言者イザヤにも、神は、民にこう語れ、と言われている、と。「この民の心は鈍くなり、その目は閉じている。それは彼らが、目で見ず、耳で聞かず心で悟らず、悔い改めて癒されることのないためである。」と。しかし、主イエスは、その様な民を愛し、彼らのために度々祈り、彼らの重荷を負い、痛みや悲しみを担われました。主はその後ご自分をユダヤの権力者たちの手に渡し、裁判を受けることになりましたが、その時彼らは結局主を「十字架につけよ」と叫んでしまいます。主は、そう叫ぶ彼らが惨めであることが分りました。その彼らのためにも主は死んで甦って、彼らが、主と共に自分に死んで、神の子として新しく生きる道を備えられました

2018年05月04日