説教 4月15日 「復活の主の伝道は豊かに実る」

聖書 ヨハネによる福音書21章1節~9節

ヨハネによる福音書は、死人の中から復活された主イエスが弟子たちに三度目にご自分を現わされた出来事を記しています。弟子の筆頭格のペテロが、他の六人の弟子たちに、俺は漁に行くぞ、お前たちも来ないか、というと、お前となら俺もとみんなついていって、舟を漕ぎだして漁を始めた、ところが、夜通し漁をしたが、全然獲れなかった、翌朝早く、復活の主が、岸辺に降りたってその一部始終をじっとみておられたのでした。しかし、弟子たちはそのあまり風采の上がらない感じの人が主だとは思いませんでした。その人は、おーい、子どもたち、なんか食べ物はあるかー、叫んで訊く、食べものにも困っている人らしい、弟子たちは、なーい、と叫んで答える。するとその人は、舟の右側に網を降ろしてみぃ、そしたら獲れるぞーっと叫ぶので、網を降ろしてみると、獲れるわ,獲れるわ、網を引き揚げる力の方が及ばないほど獲れたというのです。ヨハネによる福音書はしばしば、日常生活の物語を語りながら、別の霊的なことがらの象徴としてそれを語ることがあります。わたしたちは、他の福音書から、漁師だった、ペテロたちが主によって召しだされた時、主は、彼らに「あなた方を人間をとる漁師にしよう」と言われたことを知っています。弟子たちは、主イエスの後に従いつつ、人を漁どる神の漁師、人々を、万物の創り主なる神に逆らい、権力や富におごりたかぶる人々の支配のもとから、神の恵みの支配のもとへと解放されて、神と人へと開かれた真の自由へと救いに導く伝道の働きへと召されたのです。福音書記者ヨハネは、この主の三度目の復活顕現の物語として、弟子たちの漁の物語に、伝道の働きの物語を象徴的に重ねつつ、語ったのではないでしょうか。即ち、伝道は、シモン・ペテロや他の弟子たちの「俺は漁をするのだ」、「お前となら、俺も」といった思いや情熱だけでは、うまくいかなかったということではないでしょうか。人が自分の業に励むだけでは人を神の恵みの御手のもとに、導くことはできなかった。それは、夜の闇の中でなされていた、と言われているように、、「神」とか「キリスト」という名は唱えられていても、闇の中であがきまわって、ただ疲れが残るだけのような働きであった、ということではないでしょうか。そういう伝道ならしない方がましだ、まずは個人個人が自分の中に確かなものを見出すために確かでないのに確かだと権威づけられているものを疑い、問い直そうという思いにも導かれることもあるかもしれません。しかし、本当のところ、まさに私たちがそのように、確かなものを求めて飢え渇きあがいているその只中に、実はすでに、復活の主が、私たちを見ていて下さり、わたしたちの真ん中に立って、わたしたちをここだよ、ここだよ、と導いておられるのではないでしょうか。

2018年04月21日