説教 4月1日(イースター)「主の復活の事実と信じない私たち」

聖書 マルコによる福音書16章1~8節

主は死人の中から甦られました。わたしたちが今その中にいる暗い罪の世界がおわりとされ、神によって新しい恵みの世界が始められました。人は死ぬものでありますが、死というこの世の命の終わりさえももはや人間の宿命ではなく、死は打ち破られ、神からくる永遠の命に生きる新しい命が神と共に生きるすべての人に備えられていることが明らかにされました。今日は、その主イエスの甦らされた日を覚えるイースターです。しかし人は、神なき自分を中心に据える錯覚=罪の中にいるので、主イエスの復活によって現わされた御業を信じることができません。弟子たちも最初はそうでした。主の十字架の上での刑死を、悲痛な思いで見届けた女性の弟子たちもそうでした。主イエスが十字架上に死なれ、墓に葬られたのは金曜日、やがて始まる土曜日の安息日が終わって翌日が明け初めた頃、女性たちは遺体にすがる思いを込めて塗るための香料を携え急いで墓の前に来ました。しかし、墓の入り口に立ちふさがった大きな石のことで、途方にくれ「だれが私たちのためにあの大きな石を取り除けてくれる」言いあっていました。しかし目を上げると、石はすでに転がしてあった、というのです。「非常に大きかった」その石が取り除けられていたのは、主イエスが、死の中から甦ったことを示すしるしであったのです。彼女たちが、そんなことも知らずに墓の中に入ったその時、真っ白な長い衣を着た若者が座っていて、驚く彼女たちに告げます。「驚くことはない、あなたがたは十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、イエスは甦ってここにはおられない。ご覧なさい。ここがお納めした場所である。」みると確かにそこにはイエスの遺体がなかった、墓はからっぽだったのです。茫然と立ち尽くす彼女たちにかの若者は続けていいました。「イエスはあなた方より先にガリラヤに行かれる。かねてあなたがたに言われた通り、そこでお会いできるであろう」と。彼女たちは、そのまったく考えられない神の御業の前にただ恐ろしくて、逃げた、ということです。主イエスは、死人の中から復活された方として、ガリラヤという彼らがそのあるがまま罪びととして弱さを覚え、死に直面する日常生活が隣人たちと共に営まれる場所で、すなわち色々な困難が立ちふさがり、おなじ苦しみを負う隣人が共にいる、その場所で、出会ってくださる、というのです。そこでは、私たちの罪も弱さも重荷も、主がすでに十字架の苦しみの中で負って下さって、復活してそれらに勝利された方として、私たちにも共にいる隣人にも出会ってくださるのです。私たちではどうすることもできない罪、人類世界に広がる罪、そして、それがもたらす格差さや暴力や悲惨という、大きな石は、十字架と復活の主に担われ宿命的に立ちふさがる重さを取り除かれたのです。

2018年04月14日