説教 3月25日(棕櫚の主日) 「罪びとのためのイエスの苦しみと祈り」

聖書 マルコによる福音書14章32~42節

今日は受難節の最後の週の始まる聖日で、棕櫚の主日と言われます。それは、主イエスが今日、神殿当局によって逮捕され、十字架につけられて死んだ場所である、エルサレムの町にロバに乗って入られ、そこに居合わせた人々が、棕櫚の枝を振って歓呼して迎えたことにちなんでいます。ゼカリヤ書九章の「シオンの娘よ、大いに喜べ。エルサレムの娘よ、呼ばわれ!見よ、あなたの王があなたのところに来る。彼は義なる者であって、勝利を得、柔和であって、ロバに乗る。」との言葉通りに主イエスがふるまわれ、すべてがあの言葉通りであったのです。その王は、馬に乗って来る偉そうなこの世の王とはまったく違う不思議な王、鞭うたれながら重荷を負って人の役に立つロバがふさわしい柔和な王であった、というのです。だが何と徹底的に真実に柔和な王、ご自分を低くする王でであったことでしょうか。何と驚くべき仕方で、神から遣わされた神の子であることを示されたことでしょうか。これから主は、エルサレムの神殿の中庭で、民衆に語り、祭司や律法学者という神殿の権力と対決されますが、やがて神殿当局者に逮捕され、死刑に値する者としてローマ帝国の総督ピラトに引き渡されその裁判で死刑になり、十字架につけられるのです。その一つ一つを、すべて、主イエスはただ外からの宿命としてではなく、父なる神の導きに従う主ご自身の決断としてたち向われたのです。今日読んだいわゆるゲッセマネの祈りの箇所の最後にあるあの主のみ言葉、「時が来た、見よ、人の子は、罪びとらの手にわたされるのだ、立て、さぁ行こう」と言われる通りであります。そこで何が起こったのでしょうか。こうして、神の御子なる主が彼ら主を十字架つけたエルサレムの神殿当局者のまん中に王として立ち給い、彼らとともにわたしたち人類みんなが御子の前に引き出され、自分の罪に対して神の怒りの告発・裁きをうけるということが起こりました。なぜなら、あそこで人類の罪の醜い姿が、神によって放任され露わにされて告発されているからです。同時にまたその神の怒りを、神の御子なる主が、彼らと私たちの代りに引き受け、担って下さっていたのでした。そして、神の怒りの裁きを主と共に受けて死んだ罪びとの私たちが、新しく御子の甦りの命に与り、無罪とされ、義とされるということがあそこで起こったのです。今日のゲッセマネの祈りは、主が そのように、御子なる主を遣わした父なる神のみこころに従うために味わった苦しみがなまなましく描かれています。主イエスの祈りは、迫りくる死を避けるための祈りだったでしょうか。むしろ私たちの罪が、神の怒りを受けて最悪の結果を招かないための祈りでありました。しかしその最悪の結果さえも神は御子に引き受けさせ、私たちを罪から解き放ってくださったのです。

2018年04月14日