説教 3月18日 「天の国は実って百倍になる」

聖書 マタイによる福音書 13章1~9節

マタイ一三章にはたとえ話が集められています。海岸に集まった大勢の群衆に、漕ぎ出された船の上から話をされたということです。大空のもと広大な場所であっても響き渡る大きな声で、力強く話されたのでしょう。話の内容は、だれもが親しい平凡な日常生活の話題で、しかもその中に主は、隠れているが驚くべき神の国の真理をこめて語られました。その最初のものはこうです。「見よ、種まきが種をまきに出ていった。撒いているうちに道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。他の種は土の薄い石地に落ちた。そこに土が深くないので、すぐに芽を出したが、日が昇ると焼けて、根がないので、枯れてしまう石地。他の種は荊の地に落ちた。すると荊が伸びて、塞いでしまった。他の種は、よい地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六〇倍、あるものは三〇倍になった。耳ある者は聞くがよい」と。当時パレスティナ地方で、種をまいて収穫して、それを売って生活をしている農民は、誰でも 経験していることです。彼らの種まきの仕方は、歩きながら、いわば運を天に任せてパッパと左右に種をばらまくというやり方でしたので、まいた種の多くが実らず、失敗に終わったかのようでした。しかし、まいた種の中でよい地に落ちた者は、百倍になる、うまくいかなくても六〇倍、三〇倍になる。人生も、天の国もそんなものだ、と主イエスは言われるのです。頑張っても頑張っても、人生の途上には、内からも外からも色々な困難が立ちふさがってうまくいかないので、気持ちがなえて暗くなってしまう時があるかもしれない。しかし私たちが生きている場所は、そのままで実は、神が共にいて下さる場、その私たちを愛し、生かし、わたしたちに身を向け働いていて下さる場所なのだ。その恵みは、この世に立ちはだかるどんな困難をも覆い尽くす恵みで、それは終わりの時に豊かな実りをもたらすのだ、だから失望しなくてもよいのだ、と。だからどんな困難な状況にあっても、挫折するようなことがあっても、あの農夫たちのように、そのような神の働きの中に組み入れられて、世にある限り、その日その日一日を神さまが下さった一日として、せいいっぱい終わりの日まで恵みに応えて生きていくこと、神を仰ぎ、人々に仕えて生きることが、神から与えられているのではないか、と主イエスは、私たちに語っておられるのではないでしょうか。たしかに私たちは皆、いろいろ苦労して道半ばにして、この世の人生の終わりを迎える。しかし、神は、それをもって私たち自身の終わりとされるのではありません。私たちをみもとに召して、ご自身が永遠の命の満ち満ちる実りの世界が成就される時まで、御許においてくださるのです。だから、その様な神の恵みの支配を離れないで、今も後も生きていくことが大切なのです。

2018年03月27日