説教 7月23日 12人12色の弟子たち

   聖書 マタイによる福音書9章35~37節

今日の箇所は一二人の弟子を選び召す話ですが、直前の箇所には、主イエスが、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあら患いをお癒しになり、群衆が飼うもののない羊のように、弱り果て倒れているのをごらんになって、彼らを深く憐れまれ、そして言われたとあります。「収穫は多いが、働き人が少ない。収穫の主に願って働き人を送り出すようにしてもらいなさい。」そういわれた主は群衆と共に、収穫の主なるご自身の父なる神に祈られたことでしょう。そして、主ご自身と同じ働きへと送り出してもらうべく、父なる神に示された一二人を呼び寄せ、ご自身も父から頂いた、汚れた霊を追い出し、病気を癒す権威をお授けになったことでしょう。現代に生きるわたしたちも、当時の民衆たちと同じように、弱り果て、倒れています。かつてない豪雨が北部九州を襲い被災者たちも、当地の自治体の人たちも、必死で対応していますが、困っています。同じ豪雨が、全国各地をも襲いました。このような時こそ、私たちすべてに、神様が一人ひとりに与えてくださる命の尊厳への思いと、互いを思いあう心が求められています。 何よりも、政治を担う地位を与えられている国家の中枢の人々には、教会の枝々にと同様、そのことが真っ先に求められているはずですが、私たちの政府は、この使命に背を向けたままです。大震災での原発事故の後始末もできないまま、人の命を犠牲にして経済の利益を求め、原発に頼ろうとする経済界の欲望に沿うばかりです。働く人々の命が犠牲になり、貧困が深刻になっているのに、行動は及び腰です。彼らの横暴、腐敗も明らかにされ、彼らはその防戦に忙しいばかり。人々は打ち捨てられたままです。その中で、災害の現場では、救助する人々、苦境に置かれた人々の間に、自然の芽生える愛や勇気や知恵、支えあいには、神の国のかけらを見る思いがします。神の愛に背を向ける無関心・冷酷に陥りがちな罪人である人間にも、危機の際、神はそのような暖かい心を与えてくださるのです。これが、自然発生ではなく、自覚的に神の愛に応える自分の罪への悔い改めと感謝と讃美して起こるなら、そこに、主イエスが来られ、その時はすでに近づいたと告げた、新しい神の世界、全ての人が神の栄光を受けて耀き、互いに互いを認め合い助け合う新しい世界が、そこに始まっているのです。しかし、そのような新しい世界は、まだ与えられていません。わたしたちもなお、繰り返し、そうなれない自分の弱さを認めながら、一歩また一歩と、新しい自分へ悔い改めつつ進んでいくことができるだけです。しかし、すでにイエス・キリストは、、わたしたちの歩みに先立ってすでに神の国を来たらす働きをもう始められておられるのであって、たしたちをその神の国に招き、そのような一歩一歩へと私たちを導いてくださるのです。あの日、様々の弱さを抱え、神の国にふさわしいとはいえなかった弟子たちを召して、ご自身のお働きにあずからせたように、弱く、その様な神の働きにふさわしいなどとはとても言えないわたしたちをもご自身の働きに召し用いられるのです。

2017年09月06日