説教 3月4日 「無意識の偽善」

聖書 マタイによる福音書 12章43~45節

主イエスは、当時ユダヤで民衆の生活を律法によって支配していたパリサイ派の律法学者との対決論争の中でこういうことを言われました。「汚れた霊が人から出ると、休み場がないところを歩き回る。そこで、出てきた元の家に帰ってみると、その家はあいていて、掃除がしてあるうえ、飾りつけがしてあった。そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒にひきつれてきて、中に入り、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は、初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代もそうなるであろう。」これは、パリサイ派の律法学者に代表される偽善、自分の悪い心を覆い隠し、自分を聖い者のように飾り立てて、その裏で、その悪い心がますます悪くなる、その姿を鋭く描写した風刺です。ユダヤの律法学者特にその中のパリサイ人は、ユダヤの律法を守って、律法で禁じている、殺すとか盗むとか姦淫するとか悪いことはしない、施しも礼拝もすることで自分を聖く保つことができている、自分はあの取税人とか罪人といった悪人ではない、神の前に正しい人間と思っていました。しかし、実はそれは、自分の心の奥に潜む悪を覆い隠し、自分を正しい聖い者として飾り立てかっこよくみせて、偉そうにおごり高ぶるという、神の御前にさらに隠れたひどい悪を活性化したに過ぎない、と主イエスは喝破されたのです。その有様は、まるで汚れた霊が一応その人から出ていって、居り場がなくてさまよった末、もといたところに帰ってみるとそこは、きれいに掃除されて空っぽで、汚れた霊を追い出す神の力も働かないし、その家の主が、汚れた霊に汚された自分の罪の有様に気が付くこともない上、飾り付けられてさえいるので、汚れた霊が思う存分に悪さをすることができる居心地のいいところとなっている、そこで自分よりさらに悪い七つの汚れた霊を連れてそこに住むようになるようなものだ、と。そうなるとその人の状態は、さらに悪くなるのだ、と。私たちは自分の中に、憎しみとか嫉妬とか醜いもの、正しくないものがあるのに気が付くことがありますが、それを自分から追い払って、自分で自分を正しい清い者としたつもりになるなら、わたしたちもこの偽善という罪のからくりにはまってしまうことになるのです。私たちも、自分が、神に背を向け、自分を正しいとするという偽善の罪の虜となっていたことを、イエス・キリストがあの時、ユダヤ人のために、かつまた、その様な私たちのためにも死んでくださって、その罪から解き放って、私たちへの父なる神の愛を示してくださったことによって、はじめて知ることができました。

2018年03月27日