説教 2月25日 「使徒信条講解(7)₋聖霊による降誕」

マタイによる福音書1章16~25節 「聖霊による降誕」

使徒信条は、その信頼する神を父・子・聖霊の三位一体の神として、全能の父、イエス・キリスト・聖霊の三段に分けて告白しています。その第二の段落は、イエス・キリストについて、「父の独り子(=御子)」、「われらの主」と語ったうえで、その御子において、「われら」のためにすでになされた誕生・死・復活・昇天、今父の右におられること、やがて来るべき再臨・正しい裁きの約束というふうに、御子にあってなされる神の御業が次々と語られています。今日のテーマは、御子の地上での発端である誕生が、「聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ」と言われている所です。マタイ福音書の冒頭は、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」となっています。このことでマタイは、イエス・キリストは、アブラハムとその子孫イスラエル、その王とされたダビデとその王統が神からうけた受けた、全人類の神から受ける祝福の基となるという約束の成就としてイエス・キリストは来られたといい、キリストの誕生に至る四二代神によって男たちが「産んできた」歴史を宣べています。そのうえで、神の御子がこの世に来られていよいよ全人類を祝福する神の御業が成就しする時が来た、しかし、それは、「聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ」であったのだ、つまりダビデの家が「産んだ」のではなかった、いやいかなる人間の、つまりは男の功績によらず、ひたすら一方的な神の恵みの業としてそれは起こった、用いられたのは、一人の無名の貧しい若い女性であり、それもその胎に御子を宿らせられるという、ただ神の恵みの業を受けて立つほかない受動性が、用いられたのだ、というのです。その女性と婚約していたダビデの末裔のヨセフが、神によってマリヤを受け入れ結ばれることによって、ダビデの家系は御子に繋がれ、成就したのです。しかし当初、その人間の業によらない全く上からの神の恵みの業を、ヨセフは、その「正しさ」のゆえに、受けることはできなかった、むしろ彼は、マリヤを姦淫の女として、ひそかに離縁しようとしたとマタイは語るのです。その正しさとは、「神の律法」といいながら生ける神を拒む人間の手に握られ振りかざされた「律法」の義、人間の義にすぎません。神は悩んでいたヨセフに天使を送り、夢で、その宿された者は聖霊(神ご自身の業)によると告げて、その律法の縄目から解き放って、御子と母マリヤを受け入れる決心をさせて下さったのだというのです。

 

2018年03月06日