説教 2月18日 「十字架こそ救いの徴」

聖書 マタイによる福音書12章38~42節

主イエスは、ユダヤ社会の最底辺で病み苦しむ人々を癒し、神の国、神の恵みの満ち満ちる世界の到来を告げられました。律法学者たちは、律法を振りかざして自分を権威付け、これら貧しい人々を貶めていましたので、主イエスの業は彼らにとって怒りと躓きの種でありある日イエスに彼らは、言いました。お前に何の権威があって私らにそういうことが言えるのか,神の国のしるしを見せろ、と。その徴は、主ご自身の現になさっている癒しの業で、十分なはずですが、そこはみえません。「邪悪で不義な時代は徴を求める。」神から背を向けたままで、神の徴を求めても徴は与えられません。しかし、主イエスは、そういうかわりに、逆説の鋭いユーモアをもって答えられます。与えられるとしたらヨナの徴しかない。すなわち、ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう」と。それがしるしだ、と。これを聞いた律法学者たちも、周りにいた群衆たちも弟子たちも、何のことかわからなかったでしょう。しかし、それは主がやがて迎える十字架の上での刑死と葬りのことでありました。なぜそれが、神の国の徴なのか、それは、その死と葬りが、三日三晩で終わり、その真の意味が死人からの復活として示されるからです。このことによって、神の国を宣べ伝え、人々を癒し、そして、十字架に死んで葬られた方が、人として肉をとられた神ご自身であられたことが示されたのです。主イエスが、病を癒されたのは、外から力をふるったのではない、病んでいる人の病をご自身に担われたのです。しかし主は、人々の病を癒されただけではありません。わたしたち人類が、その神に逆らう罪とその結果負う死の宿命を取り去り、神の義を与え、朽ちない命を与えらえれるために主は来られました。それもはただ、外からではなく、主ご自身が、わたしたちの罪を私たちに代わって担い、私たちの死をご自身が引き受けることによるほかはなかったのです。神は御子にその苦しみと死の道を歩ませられました。そして、主を甦らせて、主の苛酷な苦しみと悲惨な死が、わたしたちが主と共に永遠の命をあたえられるためであったことを示されたのです。預言者ヨナが、主の召しから逃げて、神の裁きと共に大魚の腹の中の試練を与えられた末助けられた物語も、この主の出来事を前もって知らせていた前物語であったのです。ヨナが与えられた試練も、神アッシリアという悪逆非道で知られた国の人々をもいつくしんで、ヨナをその国に遣わすためのものであったことを思えば、ますますこの物語が、神の愛の大きさと、主イエスを犠牲にされたことの奥行と意義を思わされます。

2018年03月06日