説教 1月28日 「使徒信条講解(6)₋われらの主」

聖書 ローマ人への手紙 3章21~26節

今日は、昨年の10月29日以来中断していた、月の最終聖日に行う「使徒信条講解」を行います。「われは、その独り子、われらの主、イエス・キリストを信ず。」の中に、短く挟まっている「我らの主」という短い言葉は、どのような意味でいわれているのでしょうか。使徒信条の「我信ず」Credo in ~とは、わたしが、確かだと思うことを信じているではなく、わたしの思いに先立ってすでに、主がわたしのために真実な方でいて下さる、そして、わたしを招いてくださる、だから、その方に信頼する、その方にわたしを委ねるということであります。だから、「我らの主」ということも、「われら」がイエス・キリストを「主」として「信じる」ということから始まるのではなく、「われら」が「信じる」に先立って、神・キリストがいて下さり、そのみ業が、すべての人のために、そしてわれらのためにもすでに起こっている、そのことに対する応答として「我らの主」という告白が起こってくると言わなければなりません。ローマ人への手紙で、パウロは、律法の業による義を求めても人は、神の義を満たすことはできない、神ご自身が、人の業によらず、ご自身の御子イエス・キリストの信実によって、わたしたち罪びとを義として下さったことを宣べています。これを「イエス・キリストを信じる信仰によって義とさる」と翻訳すると、これは、人が義とされるためにはキリストを「我らの主」とし信じなければならない、ということになり、「信仰」という律法の業による義になってしまいます。そうでなく、すべて、人の業によらず、「信仰」にすらよらず、まず神自身が真実な方として、その独り子を人の肉をとらせて私たち神に逆らっている罪びとに与えてくださり、御子に私たちの罪を負わせて、御子を死なせるという代価によって、私たちを罪をすべて贖われたものとして扱い、私たちに無罪宣告して放免して下さったのです。そこには、イエス・キリストご自身の父に対する、また人類に対するに死に至るまでの信実がありました。その捧げられた血の犠牲がありました。このイエス・キリストの血によって、私たちは罪を贖われ、神の輝きと恵みの中に神の子として輝いて生きる者とされたのです。信仰はそれをそのままにアーメンと受け取り、そのまま全身全霊をもってあらわし「我らの主よ」と告白し、主に従って生きる応答なのです。

2018年03月06日